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『海底コンサート』

キーワード:白い息/音

 男は水煙草を口に咥えて、ゆっくりと肺に煙を満たしていく。空気を吸い込むよりも息苦しさを伴うそれは、地上に居ながら海に潜っていくような感覚に近くて何とも心地が良い。冷たく薄暗い海に全身を圧迫されながら、海底へと深く深く潜っていくときの息苦しさ。この感覚を思い出せばあの海がいつもよりも近くに感じられる気がして、男は仕事が終わるとこの店に度々訪れるようになっていた。
 限界まで煙で胸を膨らませれば、男は糸を吐くようにして煙を紡ぐ。白い煙が目の前に不規則に広がった。煙の向こうには目を細め合いながら談笑する女達が見え隠れして、漠然とそちらの方を眺めていればそのうちの1人と目が合った。何とも言えない気色悪さと気まずさが、まだ若干煙の残る肺の奥をぞわりと刺激して目を逸らす。それまで客の会話を邪魔しない程度の音量でスピーカーから流れていたものが、その時だけやけに大きく店内で響いた気がした。

 そのせいで、さっきまでただの雑音の一部だったそれが急に一連の音の塊となって脳に飛び込んでくる。意識をしてしまえば勝手に音を拾う都合のいい耳が何とも腹立たしい。男は思わず舌鼓を打ってまた水煙草を口に咥えた。

 男は音楽が嫌いだった。

 人の手によって音の高低を整列させられたそれを美しいとはどうしても思えなかった。感情を揺れ動かす響きがあるのは理解はしていたが、どうにも好きにはなれなかった。捻くれてると言ってしまえばそれまでだが、音楽一家の元で育ち、うんざりするほどの音楽と接して育ってきた男は音楽とはもう無縁の生活を送りたかったのだ。

 しかし、そんな男にもどうしても心惹かれる音の連なりがこの世界にあった。
 それは海中で聞こえる音の連弾。
 海水を伝って深海の静寂に流れる音には、ありとあらゆる地球の音が含まれている。例えば海や地上の生き物の声、人工物の発生する機械音、海底プレートの移動のような自然の音、そして自分の鼓動。
 それらが全て響き重なる海に潜ることは、男にとってコンサートホールに訪れることと同義だった。

「今日はここまでにしておくか」

 男は持っていた水煙草を机に置き、車椅子に手をかけた。もう2度と訪れることの出来ない海底に想いを馳せて。

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