私のまわりにいる人たちはエッセイにされる覚悟で生きてくれよ。
私はあまりエッセイ作家に明るくない。どちらかと言えば小説が好きなので、本屋さんでエッセイを買ったことはほとんど無い。そんな私でも大好きでよく読んだのが、ちびまる子ちゃんの作者であるさくらももこさん。
さくらさんのエッセイの面白さは私が語らずとも有名なので知っている人が多いと思うが、本当に彼女のエッセイは唯一無二の文章力で面白いのだった。ちびまる子ちゃんを見たことがある人ならなんとなく分かると思うが、さくらさんは周囲の人たちをフラットでちょっとドライな目で見ていて、飄々とした言葉選びでそれを絶妙に表現する。
さくらさんのまわりにいる人たちはみんな漫画やエッセイのテーマになり、作品にされていく。
ちびまる子ちゃんの作中では、他のアニメのように美少女や美男子だけが出てくる訳ではない。かわいらしくくりくりの目に薄いくちびるで描かれるまる子やたまちゃんのようなキャラクターもいれば、ちょっと癖のある顔で美少女とは言い難いみぎわさんや前田さんといったキャラクターもいる。そして、比較的性格が良くてさっぱりしているまる子やたまちゃんと対照的に、みぎわさんや前田さんは頑固でワガママな一面がある。さくらさんの作品は、オリジナルの漫画でありながら、「確かにこういう人いるよなぁ…厄介なんだよなぁ…」と思ってしまうような、妙にリアルな人物も登場する。こういうキャラクターたちのことをドライな目線で淡々と描くことで、世の中は"全員が良い人"ではないというリアリティが生まれている。
この傾向は漫画だけじゃなくて、さくらさんのエッセイにも現れている。
ちびまる子ちゃんの作中ではまる子のことを溺愛している友蔵おじいちゃんだが、実際は家族の中で嫌われ物だったというエピソードは、さくらももこファンの間では有名である。さくらさんとお姉ちゃんは、おじいちゃんが口を開けて亡くなっている顔を見て笑い転げたという表記があった。
普通はそんなこと、エッセイに書かないと思う。人の死んだ顔を見て笑っただなんて不謹慎だし、今の時代だったら批判されているかもしれない。だけど不思議と不謹慎に思えないのが、さくらさんの文章の凄さなのである。さくらさんは嫌な人のことははっきりと「嫌」と表現する。性格の悪い人や素行の悪い人の言動は、その様子を逃さず言葉にして作品にする。その潔さが気持ちよくて、読み手にもスカッとした気分にさせる。私はそんなさくらさんのエッセイが好きだ。
"エッセイを書け"と言われると、どこか小綺麗で優しげな美談を書かなければならないような気分になる。だけどエッセイは明るい話のみである必要はなく、暗い話や辛かった話や怒った話や泣いた話があったって良いのだ。好きな人のことだけじゃなくて、嫌いな人をテーマにした作品だってあるはずなのだ。
だから私の書くエッセイは、明るいものもあれば暗いものもある。思い出を振り返りながらぽつりぽつりと書くものもあれば、悲しみや怒りを言葉に篭めることもある。
そして、私のまわりにいる人たちはエッセイのエッセンスになる。「こんな人に出会って嬉しくなった」「こんな人に出会って悲しくなった」など、まわりにいる人によって私の感情は上下する。さくらさんの作品と同じで、世の中みんなが良い人じゃないから、時に悪い人も登場する。それをありのままに描くのが私のエッセイである。
だから、私のまわりにいる人たちには、「私にエッセイにされる可能性があると思って生きてくれ」と思う。
以前も1つエッセイを投稿した。小学校からの幼馴染への感謝の気持ちを綴ったものである。このように、私の人生を良い方向に動かしてくれる人たちのことは、積極的に書き残したいと思う。
逆に、私の人生を悪い方向に動かす人たちのことも、私は同様に書き綴る。あくまで実際に起こったことをありのままに、私の目線から書き残す。Twitterなどに書いてしまえばただの悪口だが、エッセイにしてしまえば作品になる。とある文学賞のキャッチコピーでも、「その不満、言えば愚痴。書けば文学。」という一文が使われていたが、全くもってそうだと思う。私は字書きだから、文学として書き残す。
現実でもSNSでも、私のまわりの人たちは、私にエッセイにされて恥ずかしくない人生を送ってくれ。私はいつだってなんだって、言葉にできるように鉛筆を削って待っているから。
自分の書いた言葉を本にするのがずっと夢です。