芹沢怜司の怪談蔵書「3.傘を持つ赤子」
先ほど話した交通安全の旗に出てきた若者なんだが、実は私の知人でね。類は友を呼ぶってやつで彼も怪談マニアなんだ。
私と彼の違いは怪談に対するスタンスだ。私は基本的に触れない・近寄らない・すぐ逃げるを信条にしている。彼は真逆でね……危険なものであっても躊躇いなく突っ込んでいく。怪談の真相が判明する場合もあるから悪いことばかりではないが、少しは肝を冷やす私の身にもなってほしい。
そんな危なっかしい知人はとある怪談の調査のため旅行をしている。今頃飛行機に乗っているんじゃないかな?
彼の好奇心を擽った話がある。所持している蔵書の中でもかなり古い本に載っている話だ。
【傘を持つ赤子】
秋霖降る夜、息を潜めながらこっそりと家を抜け出す。妻に見つかれば訳を聞かれるに決まっている。
すっかり灯りが消えた町は賑やかさを失い、不気味なほど静まり返っている。呼びかけをしている人、脇に固まって談笑している人、物陰に隠れて賭博をしている人……それらは全て幻だったのかと思いたくなる。
待ち合わせ場所は町の入り口だ。妻には言えない秘密――そう、俺は……いや、俺たちは浮気をしている。
相手方の女性は先日身を固めたばかりだ。詮索する気はないので浮気をする理由など知る由もないが、こんな冴えない男を浮気相手に選ぶなんて物好きな女だ。ちょっとした刺激を求めて浮気をする俺も人のことをとやかく言えないが。
町の入り口で女性と合流し、少し先にある丘に向かっていく。いくら雨で視界が良くないからといって町中ではどこで誰が見ているか分からない。男女の逢瀬の噂はあっという間に広がる。妻の耳に入れば家を追い出されてしまう。今の生活を手放すのは惜しいのだ。
「あれは何?」
丘に近づくと女性が声を上げた。女性の指先を追うと、丘のてっぺんに傘が見えた。傘は開いている。下にある何かを雨から守っているようだ。
何だろう……あれには近づかない方がいいと直感が告げている。
「ねぇ……帰りましょう。嫌な予感がする」
「……そうだな」
嫌な予感がしたのは俺だけではなかった。女性の言う通り町の方へ引き返そうとしたが――
かなわなかった。
後ろを振り返った瞬間、傘を持った赤子がじっとこちらを見ていたのだ。
深い穴の底のような黒い眼。
背中や頭に刺さった数本の矢。
全身が血で染まった赤黒い肌。
そしてへその緒。
どう見ても生まれたばかりの赤子だが、生きている者とは思えない。奇妙なのは二足歩行をして傘を持っていること。理解の範疇を超えている存在を目の前にして一歩も動けなかった。
いつから後ろにいたのか。
赤子はゆっくりと女性に近づいていく。女性は後ずさり、刹那――悲鳴を上げて丘の方へ駆け出した。赤子は俺の方には目もくれず、大人の男性と同等の速さで女性を追いかけていく。程なくして女性の断末魔が聞こえ、辺りは雨の音だけになった。
全てが一瞬の出来事だった。頭が追い付かない。一刻後、我に返った俺は女性がどうなったか確かめるために丘へ向かった。
女性は腹を裂かれ、臓器を散らしていた。雨が降っていなかったら辺りは血生臭いニオイで満ちていただろう。
何かが腹の中で蠢いている。それが這い出てくる前に逃げなければ。
走ると同時に背後でバッと傘を開く音が聞こえた。
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