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芹沢怜司の怪談蔵書「37.天使を選ぶことなかれ」

 上を見ても下を見ても本、本、本。私は本に囲まれていた。

 目の前で浮遊している本を取ってみると、心霊番組で使われるようなぐにゃぐにゃな書体で『怪談噺集』と書かれていた。

 あまりにシンプルな題名だ。これでは売れないだろうに。見知らぬ本、一体どんな怪談が載っているのだろう。新たな怪談との出会いを夢見て胸が高鳴る。しかし――奥底から湧き上がる、経験からくる警告は『おかしい』と囁く。

 ――おかしい。

 なぜ、本が浮いている? 浮かせるような機械なんて見当たらない。これは怪異の類ではないか? ああ、また長年の経験に助けられた。まずは状況を整理するのが先だ。

 手に取った本を手放す。この謎の空間に招かれる前、私は何をしていた? 慣れない環境に疲れて横になっていたはずだ。起こされた記憶はない。私はまだ寝ているはずなのだ。

 そう、これは夢。目覚めなければ。

 自覚した瞬間、周りの景色が揺らぎ始める。カチャカチャと食器の鳴る音、畳の香り、服の感触――夢と現実が混ざり合う。

 夢の世界が靄に覆われる寸前、女の人を見つけた。彼女は悔しそうに顔を歪ませていた。

 ※ ※ ※

「あっ、おはようございます。晩御飯の準備をしているのでもう少し待っていてください」

 知人は台所に戻り、鍋に野菜を無造作に入れ始める。手持ち無沙汰になった私は知人が集めた怪談を読むことにした。

「これは……なるほど、私が見たのは吉夢のような悪夢か。確かにあの埋もれてしまいそうなほどの怪談本に囲まれていたときは幸福感があった」

 読めていたらさらに幸福を感じていたに違いない。それはもう現実に戻りたくなくなるぐらいに。

「あ……」

 ページを捲る。私が寝ていた時に話したであろう怪談だ。新しい怪談の誕生――そして想像したくないが、起きてしまった惨劇。
 この部屋にテレビはない。しかしリサイクルショップで起きた原因不明の殺戮で盛り上がっているのは見なくてもわかる。

「怜司さーん。ご飯できましたよー」
「ああわかった。そうだ、夕飯を食べたら散歩に行こうか。君の大好きな怪談を聞かせてあげよう」
「おお! では早く食べてなくては!」


【天使を選ぶことなかれ】

 天使のような見目麗しい子供と、悪魔のような醜い顔の子供が目の前にいて、同時に「こっちきて」と懇願されたらどちらを選ぶ?

 二人は違う道を指している。どちらか選ばなければならない。

 天使は美しい涙を流し、そっと手を握りしめる。悪魔は下品な笑い声をあげながら強引に手を引っ張る。

 下心を持たなくても天使を選ぶ人が多いんじゃないかな。無理やり連れて行こうとしていないし、怪しい声も上げていない。ただただお願いしているだけ。

 対して悪魔の方は早く早くと急かしてくる。子供とは思えないほど強い力で連れて行こうとするのだ。
 大抵の人は悪魔の手を払い、天使の指す道へ行くだろう。優しい人なら悪魔に「後で行くから」と声をかけるかもしれない。しかし後はもうないのだ。

 天使が導く先――待っているのは死だ。何を見たのか、なぜ死んだのか、還ってきた人がいないから想像するしかない。

 では悪魔を選んだらどうなるか。多くは天使を選ぶが、悪魔の強引さに負ける人もいる。
 悪魔が導く先――待っているのは自分の家だ。そして悪魔は告げる。

「天使に騙されないでね」

 真相を話してくれるわけではないが、悪魔を選んで死んだ人はいない。

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