”好き”は私を着飾る為のアクセサリー? 今時オタクの心理を紐解く

”好き”って何だろう?
twitter(今のX)をしていて、特にオタクの方の投稿を見たり、関わったりした時に、しょっちゅうこの疑問が浮かんでいました

自分の知っている”オタクの定義”と”好きの定義”は今時のオタクの方々とどうにも噛み合わないようで、結構長い間モヤモヤとした気持ちを抱えていました

とはいえ、時代が変われば、常識も変わる、言葉に新しい意味が追加される事もある
でも「時代についていけない」なんて言葉で
流してはいけないものもあるんじゃないかな…というわけで、古いオタクとしてはちょっとモヤモヤする今時見かける一部のオタク心理について考えてみようと思います


”推しが好きな自分”をアピールする事が好き、ってどういう事?

私は紙ものや文房具が好きで、100均などでシールをチェックしたりするのが好きでして、今時の100均で売ってるシールってクオリティ高くて、種類も豊富

そこにはオタクが推しのブロマイドやカードをデコる用途に使うシールなんかも売られていて、その一つに「オタクの心情」という文字のシールがありまして、私はそのシールの言葉を見た時「本当にそのキャラの事好きなの?」と首をかしげてしまった

とはいえ、このシール「オタクの気持ち分かってる」と人気なんだそうで、正直私もオタクの自覚があるけど、その心情さっぱり分からないんですよね

具体例として、シールに書かれてた”オタクの心情”とそれを見た時の自分が思ったことを何個かあげてみますね

「推ししか勝たん」
(…誰と戦ってるんだよ、そもそも好きな物の価値の優劣つける発想が自分は好きになれない)

「推しのATMになりたい」
(…昔で言う「ミツグ君」になりたいって事?推しにどれだけお金を注げるかが愛情?って事?、虚しくないかそれ)

「顔が天才」
(…天才と言えるほどに、完璧、あるいは素晴らしい容姿と言いたいんだろうけど、素晴らしいと好きはイコールじゃないよな)

「全人類見て!」
(自分の好きなものの良さ、面白さを伝えたいなら分かるんだけど、これだと見せびらかしたいって意味にしかとれないんだけど…)

SNSを見てると、バッジやイラストをラミネートしたものをバッグの透明なポケット沢山ならべて痛バッグなるものを作ったり、プロマイドなどに例の心情シールなどを貼ってデコったり、推し活といわれる今時のファン活動を見てると、違和感があるというか

好きってなんだろう?むしろこの人達の好きって推しや作品じゃない所に向いてるように思えるんだけどなぁ…と考えたら、すとんと腑に落ちた

そっか、この人達は、”推し”よりも”推しを好きな自分”をアピールする事が好きなんだ
気づいてしまえば、なるほど、めっちゃ分かりやすい

昭和終期や平成初期と、ここ20年ほどのオタクと周囲を取り巻く環境は大きく変わり、昨今のオタクは「どこが好きか、どう好きか、よりも”何が好きか”」を重視する人が多いように思います

そしてSNSの発展でその傾向が強くなりすぎて、”好き”を自己アピールの為のステータスにしてしまう、”好き”のアクセサリー化が一般的なオタクのあり方に捉えられてさえいるとも感じます

けれど、そのオタクのあり方は幸せな物なのだろうか?
今と昔、オタク心理の変化と、その裏側にあるものを紐解いてみたいと思います

”好き”をアクセサリーにする、オタクの背景と心情の変化

好きなものを楽しむ事よりも、それを好きな自分をアピールする事を好む理由を推察すると、こういう事が挙げられるんじゃないかなと思う

  1. オタクがステータス化している

  2. 何かを心から好きになる、こだわりを持つ事が出来ないから

  3. 自分なりのこだわりや定義が無いから、多数派の定義に寄り添い、価値観の統一をはかるから

  4. オタクのコミュニティに属して、帰属欲求(社会的欲求)を満たし、安心したい

  5. お手軽に自己アピールに使えるステータスとして”オタク”が便利で使いやすいから

  6. 好きなものが理由で生きづらくなる昔のオタクと違い、”生きづらいからオタクになる”逆転現象が起きているから

これらをベースに、”好き”を自己アピールに使う心理や、それで起きることについて考えていきたいと思います

今のオタクと昔のオタク何が違うの?

今は好きを自己アピールに使うオタクが多いと言うけど、じゃぁ昔にはそういうオタクはいなかったのか?というといましたよ

知識量や考察でマウント取ろうとする人、純粋に好きな物に関する妄想ではなく、自分の欲求の為にキャラを利用する目的の二次創作なんて昭和の時代から普通にあったと思います

昭和や平成初期のオタクの面倒くさい人は「このアニメを履修すべき」とか知識や考察の深さを誇り、それをマウントに使ったり、今思えばアニメや漫画などを娯楽以上の高尚なものと捉える傾向が強かったように思います

この当時のオタクって、他人に何かしなくても、アニメや漫画を好むオタクってだけで、気持ち悪がられたり、下に見られたりする事が多く、偏見の目にされされる背景がありました

それ故にアニメや漫画が好きな人は、世間や広いコミュニティで受け入れられづらい中、オタク同士の狭いコミュニティで過ごしたり、広いコミュニティに受け入れられるために自分がオタクとさとられないように振る舞う、自分を偽る事をせざるおえなくなったり、生きづらさを抱えていかなければならない事が多かった

その生きづらさを抱えなら今を生きていく為に、推しや作品への愛情、それを愛する自分への誇りが、明日を生きる活力や楽しみに、時に救いとなり、支えとなっていた部分があり、それが愛の深さや好きを貫く力の一つとなっていたと思うのです

そして、時代は代わり、アニメや漫画を好むことへの偏見が減り、オタクを取り巻く環境は大きく変わりました

そして、かつてのその偏見による生きづらさなどの背景や、オタク自身の誇り等を考慮せず、「好きを貫くオタクの生き方」と表面的なものだけを捉えて、”ある意味かっこいい物”とされ、一種のステータスとなってしまい、オタクはかつてとは違う生きづらさを感じる人の受け皿となってしまったように感じます

かつては、アニメや漫画が好きである事で偏見の目にさらされオタクは生きづらさを抱える事が多かったのに対して、今は”生きづらさ”を抱えているからオタクになるという逆転現象が起きていている、それを象徴するのが”好き”のアクセサリー化ではないかと私は思うのです

表面的な物しか見ずに「好き」を語るオタクの空虚さ

少し話はそれますが、15年位前に当時のオタクの友人と「今でもオタクが気持ち悪いと言われるけど、自分達はオタクとしてどう思うか」という話題になり、「どういうオタクが気持ち悪いか」という話になったんですね

その時自分が話したのが「こだわりの無いオタクが気持ち悪い”
こういう容姿のこういう設定や属性のキャラを出したら、多少のクオリティに関係なく喜ぶんでしょ”という制作側にナメられてるのに、実際それでキャッキャしてる思考停止のこだわりがないオタクは痛々しくて見ていられない」というなかなか尖った意見でした。

残念ながらSNS上にはあの日の私が”痛々しくて見てられない”と思ったオタクが溢れています

「こういうのが好きなんでしょ」と提示される”容姿””設定””属性”はそのキャラクターを示す記号、表面的な部分にすぎません

”何かを好きになる”には表面的なものだけでなく「心惹かれる」「心を掴まれる」など、自分の内面に訴えかけ、好ましいと思う”何か”があるのだと思っているからこそ、表面的な部分しか見てないのに「大好き、愛してる」と語ってしまう人が浅ましく、空虚に思える、そんな上っ面しか見てない奴が自分の好きな作品を我が物顔で語る可能性を考えると許せない、それが当時の自分が抱いた嫌悪の理由だと思います

15年前といえば、2009年なのでちょうどTwitterが普及し始めた頃で、SNS時代以前にもこういうオタクは案外いたという事でもあるのですよね

自分だけの”好き”や”こだわり”を見つけられない人々

何かを好きになるには、心惹かれる、と言葉にあるような自分の内面に訴えかける物が必要だと書きましたが、自分の心、気持ちは思った以上に曖昧で不安定で、同じ物を見ても、その時の気の持ちようで感想や見え方も変わってしまう

なにげに見た作品でどうしようもなく心を揺さぶられることもあるけれど、自分の心に訴えかけてきてものを受け止めるのって結構パワーがいるから、できれば心構えが合ったほうが良いと思うんですよね

自分自身の「楽しもう」「受け止めよう」という姿勢や気持ち、自身の感受性を高める事や、時にはより楽しむために前知識を入れずに挑んだり(逆のケースも多いです)、発売、放送前の期待や不安みたいな、そういう心構えもあった方がより楽しめる気がします(期待しすぎて反動で辛くなることもありますが)

何かを好きになる、特に心底楽しそうな表情で語れる位に好きになる事って実は思ってる以上に難しい

それこそ、片っ端からアニメやドラマを再生しても「これだ!」と思えるものが見つからない事もあるかもしれません

そもそも、趣味や好きな作品が無くても良いのです
ちょっと日々の潤いや、楽しみに欠けたり、明日への活力をくれたり、落ち込んでる時に元気をくれたり、時に自分に救いをくれる”何か”がないだけで、それなりに充実した生活は出来ますし、自分に元気をくれる誰かが身近にいれば、趣味やエンタメに元気や救いをもらわなくてもいいのです

ですが、それが許されずに、無理矢理にでも薄っぺらな”好き”を語らずにいられない背景には”お手軽に誰もが主役になれるSNS"の存在があるように思います

好き”の形も、輝ける生き方も人それぞれ、という単純な事実が通じない悲しさ

何がその人の琴線に触れるか、何を好きになるか、好みは人によって違う

そして、その人が一番輝ける生き方も人によって違いますよね
漫画の主人公の様な波乱に満ちた生き方で輝ける人もいれば、一見脇役に見える、他人を支える生き方で一番輝ける人もいるのです

自分のこだわりや信念、好きなものが無い、あるいは見つけられない人には、それがわかりません

そしてSNSなどを見れば、皆が”見せたい自分”をひけらかしている
自分だけの価値観を持たない人は、その虚構の世界の人達に劣等感を抱き、自分もこうありたいと、あるべきと思っていまう、事があるのではないかと思う

だから、自分だけの価値観の代わりに、多くの人が”好きだというもの”や”幸福だと思う条件”(地位、名誉、お金)などを定義として定める、価値観の統一を図るわけです

価値観は人それぞれで正解はないけれど、多数派の意見を元に統一した価値観には定義や基準があるので、それに近づいていれば”勝ち”、金銭的に豊かで無かったり、地位などが無いなど、その条件に遠いと感じる人を”負け”と判断したりします

自分の中で価値観の統一を図ると、価値観は人それぞれという事実が抜け落ちて、自分だけでなく他人にもその価値観の元に行動すべきと思うようになってしまうのでしょう

でも、それってその統一された価値観って自分に合ってるとは限らない、それ以前にその統一された価値観の中にに”自分”は無いんですよね
それってとても窮屈でしんどい生き方なんじゃないだろうか

以前の記事で承認欲求の話をした時に、SNSの世界は実力や魅力のある人間よりも、SNSそのものに時間や労力をかけて、目立ちたい、かまってほしい人が目に入りやすいシステムであること、承認欲求が強くなるのは自分自身が頑張っていない、自己承認が出来ないから、という話をしました

頑張らずに楽して、欲求を満たそうとするからいいね稼ぎに没頭して、幸せになれない

好きなものに熱中している人は自分と関わりのない他人の事なんて気にならないし、頑張ってる自分を認めることが出来る

いいね稼ぎに時間や労力を注ぐ人は言い換えれば、自分の好きなものや自分だけの幸せの定義を持っていないとも言えます
だから、数字という分かりやすい価値に向かって突き進む、でも本当はその数字こそ曖昧で価値がないものなんだという事実に気が付かない

だから、SNSの世界には皆が画一的な成功や幸せの定義に向かって、我先にと競争するように自分を演出し、他人と比較して優越に浸ったり、嫉妬に苦しんだりするのだろうと思います

自分に属性を付加してキャラ付けするのに便利な”オタク”というステータス

オタクがひっそりと息を潜めていた時代は終わり、今は逆にオタクにステータスを求める人が増えています

それが何故かと考えると、便利で手軽だから

SNSで見せたい自分を演出するには、どう見せたいかを考える必要があります、その見せたい自分に属性をつけたり、キャラ付けするのにオタクというステータスはとても便利で都合がいいのです

こういうキャラとこういう作品とこういう物が好きな人、それが私!
好きなもの(それが本当に好きかはさておき)を並べて、語っておけば、それを好きという自分のキャラ設定になる

大した労力もかけずに、何者でも無い自分にキャラ付けが出来て、ファン同士のコミュニティに属せて、仲間もできるなら、そりゃぁ利用しないわけにはいかなよね、と思う人が出てくるのは当然ですよね

自分のココロが分からないから、表面的なものしか見えない

”好き”の形も幸せの定義も人によって違う事、何かを心から好きになる事、自分なりのこだわりを持てない事

それゆえにより多数派のものを自分の価値観に当てはめて、突き進んでしまう

それは、自分の心と向き合えてない、自分自身が自分のことを分かっていないから

とはいえ、自分の本心を理解する。自分なりの価値観を見つけ、自分の軸を作る事は誰もが簡単に出来ることじゃない、むしろとても大変で難しいこと

逆に自分の中に”絶対”を持ってるのも、そこから外れてしまった時にそれを受け止められずに苦しみを抱えてしまう

私自身、この記事を書きながら「そんなもんが簡単に見つけられたら苦労しねぇわ!だからしんどいんじゃ!」と思ってますもん

でも、出来ないから、それに蓋をして、見ないふりをする事と、出来ない事、それが難しいことを受け止めて、無いなりになんとかしようとするのは、心の持ちようが大きく違う

自分だけの価値観の無さだけでなく、強すぎる承認欲求にしろ、読解力の無さにしろ、自分が出来ないこと、劣っている事を受け入れられずに、突き進んだ結果、生きづらさが強くなり、心の健康を損なってしまっているように思う

駄目な自分を受け入れて、ダメなりにどう生きていくか考えたほうがずっと楽

自分がネットについて考え、記事を書くのは、自分が快適に生きていく為にネットやスマホとの向き方を考えるのがてっとり早い、快適に生きられない原因の多くがスマホにあるのではと考えたからなんです

帰属欲求と承認欲求、誰だって自分の居場所が欲しいし、認められたい

自分だけの価値観がないから、多数派の価値観を自分の価値観にすり合わせる、と考えたら、より人気のある作品にとびついて、”何が好き”かを重視する心理は理解しやすい

けど、それとは違う理由もあるように思うのです、それが「帰属欲求」

帰属欲求とはマズローの5段階欲求の3番めの欲求で、マズローの欲求とは、「人は常に自己実現の為に成長し続けるものである」と仮定し、人間が抱く欲求が5段階に分けられるとしたものだそうで、最下層から順に、「生理的欲求」「安全欲求」「帰属欲求(社会的欲求)」「承認欲求」「自己実現欲求」となっています

帰属欲求(社会的欲求)はその3番目の欲求で「家族や友人、会社などのコミュニティに属して、受け入れられたい」という欲求の事

「受け入れられる」という言葉だけで考えると定義は曖昧ですが、欲求なので、何を持って”受け入れる”とするかは、その人の主観で決まります
いくら周りが歓迎してくれても、本人が居心地悪い、居場所がないと感じれば欲求は満たされません

そしてその先、受け入れられたそのコミュニティ内や、その外の社会の中で、活躍し、自他ともに認められたい、尊敬されたいという欲求が承認欲求です

要は、家族や、人間関係、職場などで居場所があり、全力で活躍し、周りに認められ、自分自身を認めてあげる事ができれば、帰属欲求も承認欲求も満たされて、SNSなどでいいねやフォロワー数稼ぎや過剰な自己アピールなんてする必要がないんですよね
逆をいえば、それらが無いから満たされずに、SNSにのめり込んでしまう

人気作ばかり好きになり、愛をアピールするオタクの心理としては、同じ作品の大勢のファンのコミュニティに属して、これだけの同じ作品を愛する仲間がいるんだから、私の感性は素晴らしいものなんだと安心したい、優越感を得たい、帰属欲求を満たそうする

とはいえ、そこに努力は必要ないし、そもそも作品や推しに愛がないのだから、そのコミュニティの中で承認欲求を得ようとすれば、そりゃあ苦しいし、修羅場も起きる
SNSでの界隈といわれるコミュニティに閉鎖的な物が多く存在するのは仕方ないことだと思います

他人の好きなものを馬鹿にする、好きなものを否定されると過剰に怒り、攻撃する人の裏にあるもの

ここまでは行動の裏、そこに至る理由を考えてきたわけですが、それらを踏まえて、そういう人達がやりがちなトラブルや言動について考えてみましょう

正直、されて腹立つ、許せないと思うのは仕方ないとしても、そういう事かと思えば自分の気が楽にはなると思うので、そこで許せるかは別問題、というか許す必要ない気が…

よくあるのが「女なのにプラモデルやロボアニメが好きだなんて」「男なのに少女漫画が好きだなんて」「大人のくせに特撮や子供向けアニメが好きだなんて」と他人の好きなものを性別や年齢などのカテゴライズで判断して馬鹿にするケース

私自身、女性ですがガンプラを組んでいたし、ブロックトイでかわいくデフォルメしたロボットを組んでいた事もあるし、子供向けアニメが好きだし、その手の偏見はよくある事でした

そういう人を見ると「この人は何かを本気で好きになったことないんだろうなぁ」可哀想な人を見る目で見て終わらせます

結局のところ、自分がちゃんと好きなものが無いから価値観の統一をして、好ましい趣味か否かを分類し、それに基づいて判断してるだけなのです

あと、自分の好きなものに対しての批判的意見等を聞くと、過剰に怒り、相手を攻撃する人

確かに自分の好きなものをけなされたり否定されたりするのは腹立たしい
けど、感じ方には個人差があると思いますが、純粋に怒りにはならないと思うのです
怒りもあるけど、それと同じ位に好きな物の良さを分かってもらえない悔しさや悲しさを抱くと思うのです、いわば複合的な感情ですね

それが純粋な怒りになるには、ちょっとからくりがあるのです
そもそも「怒り」という感情は「自分の身を守るためのもの」で、自分の生命や、感情を含む、自分が持っているものなどが脅かされた時に起こる感情だそうです

じゃぁ、好きなものをけなされて何が脅かされるのか?一言でいうと”自分が好きなものに抱いてる感情”と”プライド”です

好きなものを否定され、自分の感情を脅かされると感じて腹が立つ、それ事態は誰にでも起こり得る事ですが、自分が好きなものを他人にけなされて、その”好き”という感情が実際に脅かされることって早々無いと思うのです、だから怒りよりも悲しみや悔しさを伴った複合的感情になるのだと思います

ですが、その”好きなもの”を自己アピールの為のアクセサリーにしていた場合、その”好き”は自分を演出するためのアイテムであり、そのアイテムをけなされるという事は”見せたい自分”いわゆるプライドを脅かされた事と解釈出来るんですよ、それだと防衛反応としての純粋な”怒り”になります、そして必要以上に怒り、相手を攻撃してしまうのだろうという事は想像がつきます

今はよく「多様性を認めよう」と言われたりしますが、多様性って受け入れるものなんですよ

人の数だけ、価値観や事情があって、その様々な”違い”を受け入れる
受け入れるって、その人に余裕が必要なんですよ、逆を言うと”多様性を受け入れられない人は、受け入れる余裕がない”とも言えるんです

こだわりではなく何かに”固執”して、ゆとりがない、だから”あいまい”が認められずに、はっきりとした定義や尺度を求める、そしてそれは”生きづらさ”として自分に跳ね返ってくる

結局のところ生きづらさを埋めるためにSNSに没頭し、更なる生きづらさを生み、不幸になっていく、それがSNSの恐ろしい所だと私は考えます

”好き”を自分の身を飾るアクセサリーの様に扱う行動の裏側にある心理をざっくりまとめると、自分なりの価値観が無いこと、それゆえに生きづらさを抱えていること、SNSによってその生きづらさが悪化してしまうということが根底にあるように思います

承認欲求、読解力の低下に続き、”好き”のアクセサリー化(過剰な自己アピール)とSNSの話が続きましたが、いいね稼ぎ、読解力の無さによるクソリプ、内容を理解してない人の批判的感想、推しや好き作品をマウントや自己アピールに使うオタクなど、SNSで出会う困ったさんって、その行動の裏を読み解くと「自ら不幸に向かって邁進している可哀想な人々」だったりします

自分から不幸になりに行って他人に迷惑をかかけてしまう人の為に自分が怒ったり、不快な感情を抱えてるって正直めんどくさいと思いません?

自分は、今までネットで目に入る他人のモヤモヤする行動に、不快だと声を上げる前に、どうしてそうなるのか考えてみたら、随分気持ちが楽になりました

だってマウント取られたり、自分を利用しようと近づいてきたりてムカついても「相手が自ら不幸になりに行ってるかわいそうな人」だと思えば、羨ましいとも悔しいとも思わないし、むしろそんな相手に心のリソース取られちゃうのがもったいないですよ

そういうネットでのモヤモヤを抱えてる人に「こういう考え方があるのか!」と思って、少し気が楽になる事があれば、こういう記事を書く価値はあるのではと思っています

もう少しこの手の記事は続きます、次は「内容の薄い娯楽を沢山積み重ねることの虚しさ」について倍速視聴やタイパなどの観点を踏まえて考えていこうと思います




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