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「強いお酒を飲んだみたい」のシーンの描写を解釈してみる:劇場版『レヴュースタァライト』

0.列車のシーンには説明がほとんどない

このシーンでは、大場ななの豹変、およびほかの少女たちの戸惑いを置き去りにした言動、また突如血を吹いて舞台少女たちが倒れる展開など、明らかに物語の急激な転換が生じているにもかかわらず、その説明は(少なくとも明示的なレベルでは)ほとんどなされていない。「強いお酒を飲んだみたい」のセリフなどは特に初見の我々受け手を困惑させる。

そのため本記事では、具体的な描写を追いつつその解釈を書き記してみる。物語に自信ニキたちにとっては語るだけ無粋なことかもしれないが、「なんかすごいけどよくわからなかった」という人の参考になるとすごく嬉しい。

なお、劇場版『レヴュースタァライト』が伝えたいこと(=主題)自体はめちゃくちゃシンプルであり、そもそもこの映画はシンプルなひとつの主題を複数の舞台によって繰り返し表現するような構造になっている。そのため、この記事も主題自体の解釈というより、その主題と個々の描写とがどのように結びついているかを確認するものとして役立ててもらえるとありがたい。

1.そもそもあの場面は「舞台」である

まず確認したいのはこの前提。

大場ななが「強いお酒を飲んだみたい」と発するシーン。あの言葉は少女たちの戸惑いをよそに、流れを無視して強引に繰り返される。それはまさにセリフであって、そのセリフを誰かが別のセリフで受けることを大場ななは要求している。つまり大場ななはあの場面を舞台として少女たちに(あるいは我々観客に)提示しようとしている、と言えると思う。

場面全体を見ても、スピーカーや吹き出す血のりなどの"舞台装置"、また双剣のもう一振りが遅れてやってくるという"見せる"演出(観客の存在を意識した仕掛け=舞台としての提示)など、あの場面が舞台であることを強調するような描写は各所に見て取れる。

2.「舞台」に上がれる者と上がれない者

さて、あの場面でセリフとして提示される言葉は他にもある。直前で大場ななが発した「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?」という言葉だ。

これに対して西條クロディーヌはセリフを返さず(あるいは、舞台であることを認識していないがゆえにセリフを"返せず")襲い掛かって撃退され、一方で天堂真矢は「舞台と観客が望むなら私はもう舞台の上」との答えを返す。セリフを返せた点でも、その内容のうえでも、天堂真矢はあの場面でただ一人明確に舞台に上がることができている。(ここで、TV版での天堂真矢の前口上「今宵、キラめきをあなたに」が唯一観客の方を向くものであったことを思い出すと、ちょっとニヤつけるかもしれない)

彼女がただ一人舞台に上がれているということは、彼女が血しぶきを即座に「舞台装置だ」と看破した(=舞台であることをいち早く把握した)点にも見て取れ、また天堂真矢だけが特異であるということは、のちの第101回星翔祭の決起集会のシーンでも再び示されている。あの決起集会において、真矢は舞台少女たちの中でただ一人生徒たちの輪の中にあった。

これはなぜか。西條クロディーヌの言葉を借りるなら、「なんであいつだけが」舞台に上がれていたのか。

この疑問に答えるには、大場ななから天堂真矢に向けられたセリフが「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?」という問いかけの言葉であったことに注目すれば足りるだろう。要するに、天堂真矢だけが真の意味で"次の舞台"を見据えることができていたのだ。だから彼女は問いかけに答えられた。舞台に上がることができた。第101回星翔祭決起集会という"次の舞台"を作るための場に参加することができた。真矢と他の少女たちとの差異はこの点にある。

真矢以外の少女たちも、この「次の舞台をどれだけ見据えられているか」という観点から段階的に区別できる。(区別は冒頭の面談のシーンなどから見て取れ、またこの区別は電車内での席順、および電車の上での傷の負い方の程度に反映されている。席順についてはYoutubeの予告編とかでも確認できるのでぜひ確かめてみてほしい)

【次の舞台を見据えられているか?】
・見据えているが、特定の人物との間に問題(≒話しておくべきこと)を残している→まひる、双葉
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・見据えたつもりでいたが、心の底では見据えられていなかった→純那、クロディーヌ
・未定、迷っている→ばなな、華恋
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・過去(=オーディション)に拘泥している→香子

花柳香子は次の舞台ではなくオーディションに執着していたため、あの場面を"舞台"ではなく"オーディション"として誤認してしまう。また西條クロディーヌや星見純那は真の意味では次の舞台を見据えられていなかったため、あの場面が舞台であることを把握できず、「列車は必ず次の駅へ」や「強いお酒を飲んだみたい」といったセリフに応答する、つまり"演じる"ことができなかった。

「強いお酒を飲んだみたい」というセリフは、このような体たらくの舞台少女たちとの戦闘が"強いお酒を飲み干したように"一瞬の強い刺激で終わってしまったことを言っているのだと思われる。そしてワイルドスクリーンバロックとは、そんな舞台少女たちのケツを蹴っ飛ばして前へと進ませるために、"監督・大場なな"によってプロデュースされた舞台だ。

3."演じる"行為の2つの描かれ方

では、列車のシーンで"演じる"という行為がここまで重要な役割を与えられているのはなぜだろうか。なぜあの場では「舞台であることを認識し、演じる」ことが求められていたのか。

それはもちろん彼女たちが舞台少女であることと関係しているだろうが、では舞台少女にとってそもそも"演じる"という行為はどのような意味を持つものなのか。あるいは、劇場版『レヴュースタァライト』という作品は、舞台少女と"演じる"こととの関係性をどのようなものとして描いているのか。

その視点から物語を振り返ると、劇場版『レヴュースタァライト』は"演じる"行為を2つの側面から描いているように読める。具体的には、①演者と役とは別物であること、そして②演者と役とが渾然一体であることという矛盾する2つの側面である。

①演者と役とは別物であることが強調されるのは、まずワイルドスクリーンバロックに入る直前、電車の上で舞台少女たちが自らの身体と対面する場面。ここでは、今から演じられるべき役(=物言わぬ身体)と、それを演じる演者(=自分)が完全に別物として分けられている。また天堂真矢の「神の器」というモチーフも、神の器などというものはないこと、つまり役を演じるのは魂(=心)を持った天堂真矢という人間であることを示すために持ち出されており、やはり演者と役とを区別している。

対して、劇場版『レヴュースタァライト』は②演者と役とが渾然一体であることの方をも強調している。①(=演者と役とが別物であること)はある種当たり前の前提なので、この映画の主眼は逆説的に②を強調することの方にあるだろう。(余談だが、②ではなく①を強調される必要があることからも、天堂真矢の異質さが見て取れる)

そして演者と役との一体性は、「演者の本音をぶつけ合うための舞台」というワイルドスクリーンバロックの性質自体によって示されている。コロコロ入れ替わる役の中で本音をぶつけ合う香子と双葉のものがわかりやすい。演者と役の境界線がどんどん曖昧になっていく舞台が示すのは、演じることがすなわち生きることであるような舞台少女のあり方だろう。その意味で、"舞台少女は舞台に生かされている"。

4.「私たち、もう死んでるよ」

"演じる"ことの意味をある程度確認できたので、最後にもう一度、なぜ列車のシーンでは「舞台であることを認識し、演じる」ことが求められていたのか、という疑問に戻る。

あのシーンの最後で大場ななは「私たち、もう死んでるよ」とのセリフを残してフェードアウトする。そしてそもそも列車のシーンのレヴュー名は「皆殺しのレヴュー」であり、名前の通りに舞台少女たちは血を流して象徴的な死を迎える。

舞台少女にとって生きることとは舞台の上で役を演じることであったため、死とはすなわち役の終わり、舞台の終わりを意味するだろう。そして終わった役・舞台とは『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』そのものである。

本来『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語は、繰り返される悲劇の戯曲『スタァライト』の結末を書き換えることで終わりを迎えるはずだった(TV版)。しかしあまりに魅力的すぎたこの物語は、観客の欲望に応えて自分自身を再演し続け、その果てに舞台少女たちの死を迎えることになる(ロンド・ロンド・ロンド)。

再演の果ての死を目の当たりにした『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、本来物語が問題にする必要のない「終わった物語のその後」を問題にしなければならなくなった。そこに向き合ったのが今回の劇場版『レヴュースタァライト』であり、その答えは「アタシ再生産」「愛城華恋は次の舞台へ」「私たちはもう舞台の上」というシンプルで力強いものであった。

そして「再生産」という答えの提出には、(単に死んでいるというだけではなく)自らがとうに死んでしまっていることの認識をも必要とする。終盤、華恋が塔(=足元にあった塔型の白いテープ、つまり『レヴュースタァライト』という物語自体の比喩)から出たあとで「なんにもないや」と自分を省みてから死亡するのもこの認識のステップである。

であれば、「列車は必ず次の駅へ」「強いお酒を飲んだみたい」という大場ななのセリフの投げかけもまた、この認識を促すものだろう。舞台に上がって役を演じることができるかどうか。つまり『レヴュースタァライト』の演者として死んだ後で、そのことを認識して新たな役を再生産し、舞台に上がることができているのかどうか。

果たして少女たちはセリフを受けられなかった。彼女たちは自分が死んでいることすら、本当の意味では認識していなかった。

だから大場ななは舞台少女を皆殺しにする。最後にちゃんと死ねるように、少女たちはもう一度舞台に上がる。

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