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「初めてでインパクトのあること(2)」

ヘッダーの写真は 2022年の初詣で引いたおみくじです。
そして、この記事はSUZURI Advent Calendar 2022のエントリー12日目です。

昨年に続き、たなけんさんの翌日の投稿です。
私の記憶が正しければ、たなけんさんとランチをご一緒させていただいたとき「小さい頃にそろばんを習っていた」という話題で数分間盛り上がった覚えがあります!

2022年を振り返ってみると、仕事ではクリエイターの方と直接お会いする機会が昨年以上にあったり、プライベートでは人生で一番高額と思われる契約書に印鑑を押したりと、初めてでインパクトがあることが多い一年でした。

ということで、昨年に引き続き「初めてでインパクトのあること(2)」を書こうと思います。
よろしければ昨年の記事「初めてでインパクトのあること(1)」と併せてどうぞ。

読んでも仕事には役に立たないので、同僚の方は業務時間外か、cmosyのファイルが届くまでの待ち時間とかに読んでください。

今回は高校卒業後の大阪デビュー編となります。誰かの心に刺さるエピソードが1つでもありますように。

※以下、ですます調ではなくなります。

大阪デビューの前に

身長が193cmと恵まれた体格であるにも関わらず、高校生活はスタート時点で既に紆余曲折あり、運動部には入部せず「放送部」という、名前を聞いただけでは何をするのか分からない部活に入部した。
背景としてはラジオが好きだったのと、男女比が1:4くらいの部活だったので何か自分にも起きるのではないか?という環境任せの淡い期待からだった。

「ラジオが好き」というのも厳密には「地方のラジオ局は、若い自分が、若いエピソードを送れば、DJが読んでくれてプレゼントをくれる一連の流れが好き」という不純な「好き」であり、中学生の頃から地元のラジオ局のノベルティがいくつか手元にあった気がする。
そんなわけだから、別に「ラジオが好き」なんていうのは建前であって、本当は淡い期待しか持っていなかったわけだ。

母校の放送部は、NHKが主催するコンテストにドラマ、ドキュメントの作品を応募することがメインで、当時は全国最多入賞校でもあったため、部員がとにかく多かった。1学年につき20〜30名くらいはいたと思うが、それだけの数の異性と毎日を過ごしても、私には高校時代に彼女は出来なかった。

毎日メールを送りあったり、恋文日和のDVDやハチミツとクローバーの漫画を貸し借りしたり、お菓子を貰ったり、私がとにかく好意を寄せていた違う部活の女の子がいたが、私と同時並行で全国最多甲子園出場校である野球部のレギュラーとも同じことをしていると共通の友達から聞いて「マジかよ・・・無理じゃん・・それなら早くはっきりさせないと!」と思い行動に移したが「じゃいとは友達としか思えない」と言われて諦めたことを思い出した。野球部のレギュラーも友達としか思えなかったのだろうか? もし叶うなら3人で焼肉とか食べながら当時のことを話したい。

彼女もできず強豪放送部で3年間真面目にやった結果、当時の全国最多出場校だった野球部よりも良い成績を全国大会で出して、部活推薦のような形で、顧問と強い関係性があると紹介してくれた京都の大学へ進学する手筈になり、両親も喜んでいた。私が出願期間を間違えたことにより、話が無くなったわけだが。

このことは5年前に亡くなった父は病床でも話していたから、本当に申し訳なく思っている。

そんなわけで、部活推薦は使えず、かと言って高校時代にテスト勉強を1ミリもしなかった自分は、部活の成績と小論文だけで入れる大学をいくつか受験し、合格した中から大阪の僻地にある大学を選んだ。
小論文はラジオにメッセージを送り続けたことで、何が大人に刺さるのかをなんとなく掴んだ結果、苦手意識なく楽しく書いていた。
毎回、松本サリン事件のときのマスコミ対応をテーマに使い回していた。

コンビニ使わない宣言

長野県の松本駅を出た高速バスは、滋賀県の多賀サービスエリアでの休憩をはさみ、梅田駅へ到着する。人の多さと地下街の煩雑さに圧倒されながらも、御堂筋線に乗って天王寺駅へ移動する。
ここまでは間違いなく都会なのだが、天王寺駅に隣接した、あべの橋駅から近鉄長野線に乗り換えると、どんどんと自然豊かになる。
車窓からは、私の地元と同じくらい緑豊かな風景が見え「なぜ私は大阪へ・・・?」と不安になる。
あべの橋駅から40分ほどで喜志駅に到着する。そこから更にバスで20分ほど揺られたところに、大学と下宿があった。家賃4万円で電気ガス使い放題インターネット使い放題のレオパレスで、大学生活が始まった。田んぼに囲まれたレオパレスは趣があった。場所が場所だから安すぎる。

レオパレスの2つ隣の部屋には、違う学科の女の子が住んでいた。
入学式の翌日の夜にインターホンが鳴り「肉じゃがを作りすぎたのでどうぞ。コンビニの袋を持って歩いているのを見かけて自炊しないのかなと思って」と、タッパーに入った肉じゃがを持ってきてくれたことがあった。
その時の私は「大学4年間でコンビニを1回も使わない」という謎の目標を立ててストイックに生活しようとしている最中だったため、肉じゃがを持ってきてくれた事実よりも、コンビニに通っていると思われたことが嫌になってしまい「あ、あざすぅ・・」と肉じゃがを受け取った。
飲食店以外で、母親以外が作る料理を食べたのが初めてだったわけだが、あまり味は覚えていない。
その人とは、それっきり会話をしていない気がする。私はそういうところが本当に良くない。
コンビニは、4月は使わなかったが5月頃から普通に使った。

よく通ったファミリーマート

アルバイト

私にはアルバイト適性が無かったらしく、数多くのアルバイトに落ちた

  • 100円ショップ

  • コンビニ

  • 本屋

  • 個人経営の喫茶店

  • 小学生の塾

  • web制作会社

どんだけ落ちるんだ。
特に100円ショップは面接はスムーズにいき来週からのシフトの話をしていたにもかかわらず、終わった後に受けた「適性検査」の結果が悪かったらしく「やっぱり大丈夫です」となった。やっぱり大丈夫とは・・?

▼(参考)ダイソーバイトの筆記試験の内容とは?テストの内容が早わかり
http://kal-co-life.net/daiso/entry25.html

※自分自身の名誉のために補足すると、多くのバイトは入れるシフトの関係で落ちた可能性が高いです。ダイソーは適性検査です。許せん。

生まれて初めてやったアルバイトは、テレビ局のカメラアシスタントだった。単発で入れる紹介のバイトで生放送の現場だった。カメラマンの方がコードを踏まないように、後ろの方でコードを捌くのが仕事だったのだが、緊張感に耐えきれず3回ほどで辞めた。メモを取らずに同じ質問をしてバイトリーダーに酷く怒られたことも影響している。

その後は遊園地のバイトや、従業員2人の映像制作会社のバイトをした。
遊園地のバイトは特に書くことも無いが、映像制作会社は社員の方が翌朝荷物をまとめて消えていたり、他にも怖い思いを沢山したが、大阪でしか味わえないであろう経験となった。給料未払いで経営者と連絡がつかなくなると、行政が何%分か補填してくれることも、ここで初めて知った。

学生生活

特筆して書くことは無い気がする。友人の多くが留年した。

とにかく田舎だったので、学外の同世代との交流がほぼ無かった。
仲良くしてくれた先輩がいたのだが、その先輩の家にバイト帰りなどに週3程度通い「最近、恋してる?」「先輩はどうなんすか?」という常套句をやりとりしながら、タバコのヤニで汚れたボロボロの壁を見て「何かしないと、変わらないと、いけないっすね・・・」と話していた。その先輩とは、今でも半年に1度、あの頃と変わらずに献血に行っている。

このアパートにはもう一人先輩が住んでいて、その先輩にも本当にお世話になった。先輩のバイト先のパスタを再現して作ってもらったりした。

私が卒業するときに留年した友人と、mixiでこれから結婚するカップルを探して、プロフィールビデオを無料で作って渡したこともあった。すごく幸せだった。
最近YouTubeをやりたくなり、2年ぶりに、この友人に電話をした。「相談があるんだけど」「何か分からないけどいいよ!だいたい吉沢がやることは想像がつく」と返ってきた時は友人に恵まれたと思った。

年内には公開するつもりで準備をしているので、チャンネル登録よろしくお願いします。

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あと50個くらいはエピソードがあるのですが、一旦ここまでにさせてください。
メリークリスマス!また来年お会いしましょう。

明日はSUZURIのPdMのミルテさんです。いつもお世話になってます!
私の記憶が正しければ、同僚のスッシーとミルテさんの3人で「渋谷の新南口にある大学生の彼女が初めて作ってくれる手料理みたいな豚汁の店」へランチに行きましょう!と向かっている途中で、美味しそうな寿司屋を見つけて、豚汁のことを直ぐに忘れて寿司ランチに変更した覚えがあります。また行きましょう!!

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