ライオンが逃げた

「本日〇〇動物園で、動物脱走対策訓練が行われました」
アナウンサーの和やかなナレーションとともに、ライオンのきぐるみが大勢の大人に囲まれ、捕まえられる、そんな茶番じみた訓練風景を、誰しも一度はニュース番組で観たことがあるだろう。不必要な訓練だと侮るなかれ。時として動物は逃げ出すのだ。


僕は大学一年生の夏休みに、地元の動物園で飼育実習をさせてもらった。この時見学させてもらったライオンの爪切りは僕にとって衝撃的な経験であり、以前noteに書いているのでご参照いただけると幸いである。その記事でも少し触れたが、動物園動物に麻酔をかける場合、麻酔銃を使うことはめったになく、多くの場合は直接注射を行うか吹き矢によって麻酔をかける。

なぜ麻酔銃を使わないのかというと、痛いからである。麻酔銃といえど「銃」の一種だ。当たり前である。当たったところが打撲になるのはもちろん、下手すれば骨折もあり得るのだ。さらにどこに当たるとも分からないので確実に麻酔がかかるかも保証できない。だから基本的に麻酔をかける場合は、スクイーズゲージなどの狭い檻に入れて動きを制限した状態で直接注射を打つ。実際、僕が見学したライオンの爪切りでもスクイーズゲージを利用していた。

しかし、その動物園では21世紀に入ってから2回、麻酔銃を使って麻酔をかけた実績がある。

猛獣が逃げたのだ。

2002年にメスライオンが、2016年にチンパンジーが脱走している。チンパンジーに関しては、動物園を飛び出し、住宅街にまで行っている。大事件である。

僕が実習に行った頃、チンパンジーはまだ脱走しておらず、ライオンはすでに脱走していた。


「『サクラが咲いた』って無線放送がくるんだよ。開園中でお客さんも入っててさ。パニックにならないようにって。隠語ってやつだな。」


実習中に当時のことをよく知る飼育員さんに教えてもらった話だ。動物園によって言葉は異なるようだが、その動物園では『サクラが咲いた』が動物脱走の隠語だったそうだ。少し想像してみよう。

飼育員さんが持っているトランシーバーに、『サクラが咲いた』と流れ、慌てた飼育員さんたちがウロウロしだし、お客さんたちは急に出口まで誘導される。。。

何かあったことは明白である。何かしらが咲いた(逃げた)ことは分かるだろうが、それがメスライオンだとは誰も思うまい。春先の出来事だったことも合わせると、本当に桜が咲いたという連絡だと思った人もいるかも知れない。ナイス隠語である。

お客さんが園外に誘導されていく中、無線を聞きつけた飼育員さんたちは集まり、ライオンを捜索し始める。思いの外ライオンの居場所はあっさりと特定された。

植え込みの草陰だった。

飼育員さん曰く、きっと初めて外に出てビビって植え込みに隠れてたに違いない、とのこと。本当のところはライオンに聞くしかない。何しろ相手はメスライオンである。普通単独では行わないが、獲物を見定めるために隠れていた可能性も否めない。

居場所が分かればあとは然るべき手順に従って捕らえるのみである。網と檻と麻酔銃を用意し、捕獲後に動物の体調が悪くなった場合に備えた準備をする。

諸々の準備が終わり、現場に麻酔銃がやってくる。ここで一つ問題が生じる。麻酔銃を誰が撃つのか、である。

麻酔銃での動物の捕獲と聞くと、サーカスから逃げたゾウが麻酔銃を撃たれ、その場でゆっくりと倒れ込む、そんな姿を想像されているかもしれないが、現実は違う。麻酔がかかるまで少し時間がかかるのだ。

動物にしてみれば、辺りを大勢の大人に囲まれ、急に大きな音が鳴り、体に激痛が走る。痛みはあるが体はまだ動く。戦うべきか逃げるべきか…。いずれにせよ動かなければ…。

生物の生存戦略としてFight or Flight responseというものが知られている。生命の危機に瀕した際、戦うのか、逃げるのかということである。牛や馬ならいざしらず、食物連鎖の頂点であるライオンの辞書に「逃げる」の文字は恐らくないだろう。あったとしても3 ptくらいのサイズだ。ライオンに銃を向ける時、ライオンもまた銃を向けるのだ。

「やはりここは、いつもお世話している猛獣担当の〇〇さんがいいんじゃないか」
「いや、麻酔を扱うのだから獣医がやるべきだ」
「私は麻酔がかかった後の健康チェックをしないといけないから、ここは園長が」
「私はこのあとの会見の準備があるから、副園長が」

ダチョウ倶楽部よろしく、スナイパーのなすりつけ合いが始まる。
侃々諤々の議論の末、猛獣担当の飼育員さんが銃を構えることになった。

ゆっくりと狙いを定め、引き金を引く。見事命中。
ライオンは驚き、暴れまわり、飼育員さんめがけて突っ込んでくる。
突進の途中、麻酔が効き始め、体の力が抜けていく。

ライオンは無事捕獲され、来園者、スタッフの誰にも怪我はなかったそうだ。
捕獲されたライオンも骨折などはなく、僕がいた当時も元気に飼育されていた。

当時、ライオンの運動場が改築工事中で、普段なら無いはずの足場があったそうだ。この足場を利用して、三角跳びの要領で脱走したとのことだ。動物の身体能力の凄さを実感するとともに、動物園で様々な動物を間近で観られることの貴重さを感じた。

「あいつらは逃げても多分人は襲わないよ。それよりも人間の方が怖いね。人間不信になるよ。」

麻酔銃を撃った猛獣舎の飼育員さんが言っていた印象的な言葉である。

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