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リョウタは激怒した【短編小説】

『メロスは激怒した。』から始まる太宰治の「走れメロス」という作品がどれほどすごいのか、父はよく語っていた。「やっぱすげぇのさ、太宰は。どんな作品も最初と最後の一文が優れてる。特に走れメロスは…」と、話し始めると止まらなかった。

僕は子供の頃から激怒したことがない。そんな僕に対して父は「おいおい…リョウタ、おまえは…昔から…優しい子さ。でもな…友達を守る…ためには…激怒しろ。それ以外…穏やかに…過ごせ。これが…父さんの、遺言だ」と、病床でそう言って、いつもの笑顔を浮かべようとした5日後、父は旅立った。法律の勉強をしながら、文学への未練を残し、投資家として成功した変わり者の父だった。

そんな僕は、父が旅立った7ヵ月後に国公立の中学に入学した。小学校時代は平和だったけれど、中学は、色んな小学校から生徒が集まっていて、途端に不穏な空気が流れていた。

妙に不良を気取る奴らが多い。不良マンガの影響か何かは分からない。だけど、僕とは全く世界が違っていた。僕が影響を受けたのは父であり、父が好きな文学だったから。

といっても、文学作品を読んだことはほとんどない。例外的に夏目漱石の坊っちゃんは読めたけれど、あとは難しかった。父が三島由紀夫と大江健三郎の魅力を語っても、僕には難しすぎて分からなかった。仮面の告白も同時代ゲームも分からなかった。谷崎潤一郎の春琴抄は読みづらいし、島崎藤村は長すぎた。

あ、いや、太宰治の走れメロスは普通に読めた。あれは面白い。メロスは激怒した。って冒頭を、無意識に父に、刷り込まれていたせいかもしれない。最後の一文は忘れてしまったけれど…。

中学に入って、一学期が途中まで過ぎて、そんな頃。クラスでいくつかのグループができあがっていた。女子に関しては、小学生の頃から、いくつかのグループに分かれていたけれど、男子まで分かれるとは思わなかった。不良がいて、真面目な集団がいて、どっち付かずの、僕のような生徒がいる。

つまり3グループに分かれていたわけだけど、不良は1軍と呼ばれ、真ん中の僕がいるグループは2軍、真面目な集団が3軍らしい。そういうの、くだらないわ…と僕は思っていた。クラスみんなで仲良くしたかったけれど、それは叶わない望みのようだった。まぁ僕自身は、不良とも、真面目な生徒とも、普通に接していたのだけれど。

そんなとき、事件が起こった。

うん、事件と言って、いいだろう。

どのグループにも属していない男子生徒の一人が、不良からイジメを受け始めたのだ。彼は妙に太っていて、妙に暗くて、妙にもじもじしていた。僕の小学生時代の親友とそっくりだった。だから何度か話しかけてみたけれど、「あ、うん」と言うばかりで、仲良くなれなかった。

しかし、だがしかし、イジメとなると話は変わる。弱いものイジメは許せない。父の遺言もある。僕は激怒した。だから休憩時間、彼に積極的に話しかけた。どうやら僕が近くにいると、不良も手を出せないらしい。僕は決してケンカが強いわけでも、口が達者なわけでもないけれど、何となく不良たちは、僕のことが苦手らしい。

僕が不良を恐れないせいだろうか。同じ中学生だろう? 一体なにを恐れる必要があるんだよ。僕にとって恐いのは、大切な人が死んでしまうことだけ。それ以外に恐いことなんて何もない。ひとつもない。

しかし不良グループは、僕の目の届かないところで、やはり彼をイジメていたそうだ。少しずつエスカレートしたそうだ。そして風の噂で、こんなことを聞いた。

「あいつ今日の放課後、教室の窓から落とされるらしいよ」

えっ? すぐには意味が分からなかった。分かろうと努力してみた。窓から落とされる。誰が? イジメられている彼が。なぜ? 分からない。分からないけれど…僕は最高潮に激怒した。僕の激怒は止まらなかった。

いつもなら放課後、すぐに塾に行かなければならないから、真っ先に教室を出るのだけれど、その日は残っていた。3階の廊下の奥で待機して、教室の様子をうかがった。掃除が終わり、不良たちが教室に戻ってくる。その後ろに…いじめられっ子の彼がいる。不良の一人に無理やり肩を組まれている。いじめられっ子の彼は、ずっとうつむいている。

あぁくそ! やっぱりか。だけど彼も、言い返さないとダメだ! いつまでもウジウジしてるから、やられちゃうんだよ。と、僕は思いながら、教室に向かって小走りに駆けながら、「いや、彼は悪くない。不良が悪い。大人の世界なら、普通に逮捕されるだろ? 犯罪行為だろ? なぜ許されるんだ?」と、考えれば考えるほどイライラした。父が残した法律の本を読んだせいかもしれない。僕は文学より、法律に向いているようだった。

教室に駆け込む。一番後ろの窓が全開になっている。その前で、不良の一人が、いじめられっ子の彼を羽交い締めにしていた。

「面白く落ちろよ」と、不良グループの代表格がそう言って笑っている。そいつの名前はキシムラと言う。背が高くて、イケメンで、それなりに勉強が出来て、何をやっても許されるようなやつだ。クラス担任の女教師も、キシムラには何も言えない。

キシムラの周りに3人の不良がいる。今まで、ほとんど話したことないけど、いつもキシムラの言いなりになってるやつらだ。僕は「やめろ!」と言って彼らに近付く。

不良たちが一斉にこちらを向く。羽交い締めにしていた不良が羽交い締めをやめる。いじめられっ子の彼が、僕に弱々しい視線を向ける。僕はまず、彼に近付いて言った。「おいおい、よく聞けよ。君は悪くない。でも強くならないといけない。今のままだと、大人になっても変わらない。法律すれすれの場所で、色んな人間にやられてしまうよ。それが嫌なら変わろうよ。言い返そうよ。抵抗しようよ。戦おうよ」

なんだか僕は熱くなってきた。そんな僕を見て、キシムラが冷静にこう言った。

「許してほしいのか?」

許すも何もない。なぜ許されなければならない? いじめられっ子の彼が、何をしたっていうんだ。あまりにくだらない。あまりに子供だ。あまりに…と、僕が思った瞬間、追い打ちをかけるようにキシムラがこう言った。

「おまえが代わりに飛べよ」

あっ? なんだと? 僕は意味が分からなかった。こいつは何を言ってるんだ、飛ぶとか飛ばないとか、そういう問題じゃないだろう。

「どうする?」と続けてキシムラが言う。「飛ぶのか? 飛ばないのか?」

周りの不良がニヤニヤ笑っている。キシムラは真顔だ。

僕は不良を押しのけて窓の前に立つ。風が吹いている。空が青い。グラウンドが広がる。サッカー部の生徒が練習を行っている。その向こうで陸上部が短距離走を行っている。遠くに山の稜線が見える。穏やかな日だ。穏やかすぎる日だ。本当なら、僕だって今日は、塾で勉強しているはずだった。

僕は窓から顔を出して下を見る。高い。たしかに高い。3階がこんなに高いと思わなかった。だけど…飛べないこともない。真下に砂利があり、その近くに花壇がある。花壇の周りに草が生えている。うまく草に両足で着地できれば…。だけど、少しでも体勢を崩せば大怪我するだろう。いや、両足で着地できても、足の骨が折れるかもしれない。

「飛ぶのか?」キシムラが追い打ちをかける。周りの不良はまだニヤけている。なるほど。周りの不良は本当に飛ぶと思っていないのだろう。だから、ニヤけているのだろう。

僕は何も言えない。さっきまで激怒していたけれど、なんで激怒していたか…分からなくなってきた。大体、いじめられていた彼が悪い。そんな弱い精神と態度で、人にすがろうなんて、間違ってるだろう。大体、なんで僕が助けなければならないんだ。なんで僕なんだ。他のクラスメートはなんで無言だったんだ。どうしてだよ…。

僕は涙があふれそうになった。そして不意に父の言葉を思い出した。「友達を守る…ためには…激怒しろ。それ以外…穏やかに…過ごせ」

父さん…あなたは間違っています。そんな気持ちだから、刃物で刺されて、亡くなってしまったんです。詳しくは分からないけれど、友達を守るため、ヤミ金という、危ない場所に一人で行ったと聞きました。そこで色々あって、刺されてしまったんだと、お母さんに、聞きました。一時的に意識が戻って、話せるようになって、そのときに言った言葉が「友達を守る…ためには…激怒しろ。それ以外…穏やかに…過ごせ」

もっと、他の言葉があったんじゃないですか? もっと、違う言葉が…。

僕は涙が止まらなくなった。いじめられている彼も泣いていた。不良たちが笑い、キシムラがそれに対して「やめろ」と言った。

僕は飛ぶのが恐くて、泣いているわけじゃなかった。自分でもよく分からないけれど、色々なことが悲しかった。不条理ってやつだろうか。理不尽ってやつだろうか。なぜ、色んなことが、起こるんだろうか。なぜ、どうしようもないことが、起こるんだろうか。なぜ…。なぜ…。なぜ…。

「もういい」とキシムラが言った。

僕はそれを聞いて笑った。なぜ笑ったのかは分からない。何かのスイッチが入ったとしか思えない。もういいだと? もういいなら、最初からやるなよ。そんな半端な気持ちで、人を飛ばそうとしてるんじゃねぇよ。僕は言った。

「飛んでやるよ」

そして僕は、窓の前の鉄パイプをまたぎ、そのまま、普通に、下に落ちた。あまりにも唐突に。もう、何も思わなかったし、何も感じなかった。何の抵抗もなかった。ただただ、窓から、落ちた。飛ぶのではなく、落ちた。普通に落ちた。三階から、落ちた。

正直なところ、着地するまでの記憶は曖昧だ。一瞬のようでもあったし、永遠のようでもあった。重力に従っているようでもあったし、重力にさからっているようでもあった。ただ、風が心地よかった。下からの風に包み込まれている感覚があった。

気付いたときには草むらに、両足で立っていた。痛みはあったけれど、激痛ではなかった。なんとか堪えられる痛みだった。骨も折れていないようだ。うまく着地できたようだ。

3階の教室を見上げると、キシムラと不良たちが顔を出してこちらを見ていた。不良たちは真顔だった。キシムラの表情は分からない。

僕は彼らに向かって、

「ざまぁみろ!」

と叫び、すぐに恥ずかしくなった。窓から落ちて、何がざまぁみろだよ。そんな自分ってどうなんだよ…と思ったら、急に、恥ずかしくなったのだ。

僕は、ひどく赤面した。

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