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[掌編小説]カメムシ

 盆に三歳になった孫が遊びに来た。
 こんな田舎じゃ退屈するかと思ったが、玄関であいさつをすませると、すぐに我が家の庭に出てうろうろと散策を始め、しばらくすると隅でうずくまって、動かないでいる。
 こちらも煙草の煙をくゆらせつつ、開け放った掃き出し窓からじっと孫を見ている。
 娘が来て、坊やに帽子をかぶせてくれと頼まれる。
 煙草の火を消すと、縁側からツッカケを履いて出て、孫の元へ歩いていく。近づくと、孫がこちらをちらりと見るので、帽子をかぶせてやる。
 「そんなに面白いものでもあったかい?」
 声をかけると、難しそうな声で応える。
 「じいちゃん、これはなに?」
 孫がこれと言ったものに視線をやると、黒い大きなカメムシである。カメムシがひっくり返って腹を見せている。たくさんの脚をバタバタを動かしているが、足先は地面をひっかくことが出来ない様子。代わりに、背中から伸びた透明な翅が痛々しく動くと、ずりずりと体が前へと進んでいく。
 「これはカメムシという虫だ。ひっくり返っているので、起き上がろうともがいているのだろう」
「カメムシ。がんばってるの?」
「そうだろうね」
「じゃあ、てつだったらいけない?」
「なんだって?」
「ぼくがころんだら、パパもママも、ぼくがじぶんでおきあがるのをまってるの。がんばれっていってまってるの」
 私はうーんと唸ってポケットから煙草を取り出して、あわてて戻した。
 孫はまだこちらを見ている。
 はあっと大きく息を吐いて孫を見る。
 「君は、これからできることがどんどん増えていく。いっぱいだ。だから一人で頑張らないといけないこともあるだろう。いっぱい頑張ったらいい」
 ぎこちなくも、孫の小さな頭を撫でてやる。
 「しかしね、この虫は、きっともう起き上がれないのだよ。精一杯生きた虫なんだろうね。そして今は弱ってどんどんできることが少なくなっていく。頑張れることも減っていくんだろうな」
 孫は、またカメムシを見つめる。
 孫の隣にしゃがんで、私も虫を見つめる。
 乾いた地面に、カメムシのずった跡が線になって引かれている。
 じりじりと太陽が肌を焼く。
 「ねえ、スイカ切ったから食べない?」
 縁側から娘が呼んでいる。
 「さあ、スイカを食べようか」
 そういって二人で立ちあがる。
 孫の手を取って玄関へ向って歩く。
 「ちょっとまって」
 そう言って孫は突然私の手を離し、元居た方へ駆けていく。
 ピタリと立ち止まると、しゃがんで虫をそっと持ち上げる。気づかわし気に両手を掲げて、大きな庭石の上に虫を置いた。
 しばらく小首をかしげたあと、とたとたと満足そうにこちらに戻ってきて、私の手を握った。

 スイカを食べ、横になった孫は小さな寝息をたてている。
 柔らかい風が吹いて、リーンと風鈴を鳴らす。
 さきほどの庭石に目をやると、カラスが一羽岩の上におりたって、虫を咥えて空へと飛び立つところだった。
 空は青く、薄い雲が風に流れていた。


おわり

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