書記の読書記録#62「ヘヴン」
川上未映子「ヘヴン」のレビュー
「戦後文学の現在形」にて紹介された本。
レビュー
あらかじめ,現代社会における救済物語だと予想して読んだ。正しさを求めずにはいられない人間に見切りをつけて,どこへゆくのかを考えながら。被害/加害の軸による社会の分断と,人々の移動可能性はいかなるものか。対話の限界と,救済の可能性としてのヘヴン。最後まで読んで,なるほど「ヘヴン」だと勝手に納得してしまったが,解釈はいくらでもあるだろう。
主人公とコジマについて,奇妙な友情関係,というよりは共犯関係に見える。それは加害者側の社会と似通っている。共通項が見出せなくなれば切れるもの。そして,あとでその関係は総崩れするのではないか,というのも傷同士の引き合いはいつか途切れるものだから。後になるにつれて,2人の共通点よりも相違点が浮き上がってくる。
本作ではいじめについて事細かに描写されている。あえて拡大解釈してしまうのであれば,それを解決できるかどうかという話は,世界平和がどうのと語るのと同じようなナンセンスさを持つと思う。正しさから逃れることは困難。そもそも分断されている地点で対話は無理だ。
誰か早く主人公の欺瞞を暴いてやれよと思ったら,ちょうどいい具合の人がいた,その名を百瀬という。彼のセリフを列挙するにも多すぎるので1つだけ,p224「地獄があるとしたらここだし,天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」百瀬の論理の極みはこれだろう。
流石に中学生でこれは論理的に過ぎるが,被害/加害という分断を感じるには十分であろう。さながら敗者と勝者,無神論者と有神論者の違いのように。この論理武装を前にしたら,中途半端なルサンチマンなんて相手にならないだろう(しかし後のコジマを見た後だと向こうがやばすぎてこちらがまともに思えてしまう程度であるが)。
作者の描写は,簡潔でありながらもダイナミクスに満ちていて,それは「病み」の過程すら再現できる。その点では読む人を選ぶというか,無理な人はとことん無理だろう。私も,中途半端に引きずりまくるようなら読むのやめようかと思った。それにしても,思い込みの世界を描くのが上手いなーこの作者。たびたび文学で取り上げられる話題だけれど,本作でも意識と世界の関係に踏み入っている。
コジマと百瀬は正反対のことを言っている。それはそうなのだが,自分を正当化している点では共通する。見えない世界を語る術はない,目の前が崖であろうが,それに気づくことはないと思う。
さて,その間に揺れ動く主人公はどう動くか。すべての将来は偶然だが,どう形を成すか。その結果はラスト数ページに現れたようだ。
百瀬について思うのは,中学生という設定が本当にもったいないなと,さすがにハリボテ感が,ちょっと弱い。これがもし「青年」だったら,名の無い一般人だったら,どんなに痛快だったことか。サイレントマジョリティというのか,もっと滑稽な絵になったかもしれない。
弱者を気取る側の人間について,家庭環境が歪んでいるのは,いかにも純文学的だ。主人公にしろコジマにしろ,その詳細を推し量るのは難しいが,「普通」でないことは本人が感じていることと見てとれる。その不条理に適当な理由をつけて逃れようとするのも本人。
百瀬と対の極をなすのはコジマである。コジマの行動はさながら原理主義者のようだ。百瀬の論理も痛快だったが,コジマが(主人公曰く)「得体のしれない強さ」をまとうのには驚いた。その姿は無敵だ。殉教者である!
いかにもなボーイミーツガールから友情の欺瞞が記されるものと思ったが,それのみならず,宗教戦争下における相反する思想の極と狭間が見れたのは想定外だった。社会空間の不気味さ(綻び)を論理立てる様子より,哲学論議を聴いているかのようだった。本書の理解には哲学の素養が必須であろう(さもなけば狂信者に身を任すか?)。
人々の狂乱を中学生に背負わせるのは流石にやりすぎとは思うが(あり得ないと切り捨てるのも自由),戦争もヤクもない空間でここまで騒がしくできるのは面白いことだ。迫害者と殉教者の永遠に続く議論にも関わらず,現代の人々は熱狂して身を投じることができる,そんな作品だ。
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