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書記の読書記録#86「箱男」

安部公房「箱男」のレビュー


「戦後文学の現在形」収録作品。


レビュー

覗き窓といえば,江戸川乱歩「屋根裏の散歩道」が印象的だろうか。「箱男」は随分と用意周到かつ大胆で,わざわざ箱を被ってまで「覗き窓」をこしらえるのである。そうして一市民を超越する。現代の「民衆」の姿と,そう変わらないような気もする。


少し脱線

「偽物の方が圧倒的に価値がある。そこに本物になろうという意志があるだけ,偽物の方が本物より本物だ」(西尾維新「偽物語」より引用)

なおこのセリフに並べて,「本物の方が価値がある」「どちらも等価値」という思想が,それぞれ別人物により展開される。


さて「箱男」に戻る。作中に流れるのは,melancholyに覆われた何となくの不安ではなかろうか。例えば,物語として軸となる人物が欠けていることに対する不安。いつまで読んでも解決が見当たらないことへの不安。読者が欲するものは,なかなか手に入らない。


「見るー見られる」構造について,その意識のアンバランスは一種の病の典型ともいえる。箱を被ることはそのバランスにどう寄与しているのか。例えば,「見られる」に極端に振り切ることで,逆に現世界から断絶できるといった感じか。一切の苦悩を捨てたものこそ,本物の箱男だというのか。


感想の多くには「難解」というワードが見られるが,そもそも解る必要性はどこから生じたのだろうか。また,何をもって解るなのか。別に古典的なミステリーでもないので,何回か読んで,その都度異なるアプローチから解析して,個別の感想を得られれば十分だと思う。


しかしまあ親切心というのか,丁寧な誘導があるようで,p117「ふと思い出した嫌な記憶〜見ることからも,見られることからも,ただ逃げ出したかったのだ」またp118に露出症の考察が記載,これで箱男が定義しやすくなっただろう。覗きを真面目に書くとこうなる。


箱男だなんて大仰な,と思われるかもしれないが,現代において類似したものは多数見られる。SNSの匿名性であったり,最近だとVtuberの見せ方であったり。見るー見られるの非対称性は現代になっても引きずられる。


現代において「ヤブ医者」は何だろうか。国家資格の有無だけで贋医者かどうか判別できる,確かにそうだが,実質はどうか。先日触れた「本物になろうという意志」,本物が持っていないとしたら……今でもおそろしい。さりげない社会風刺でもあるようだ。


古代の叙事詩は朗々と読み上げられることで観衆を熱狂させたらしいが,本作ではそれは無理だ。なんせ語り手がコロコロ変わって誰が誰がってなるし,不連続の場面転換に意識を向けざるを得ない。雑にいうと「メタい」。


一体いつ終わるのだろうか,誰かが死のうが覗きがバレようが終わらなかった語りを,何が終わらせるというのか。ここに不安の極値。だが結局,語り手自身が話を閉じるのである。ささやかな現世界への怨恨を込めて。


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