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科学技術「真の秋葉原の歴史」

【鎮火に願いを】

1869年の年末。

神田相生町が大火事になった。

この時あたり一面は、全焼して焼け野原になってしまった。

この後、もう二度とこのような大火事が起こらない様に神社が建てられた。

その神社の名前は「鎮火社」

この神社は、火災が起こらない様に願いが込められた神社だった。

鎮火社


【大きな勘違い】

東京には、防火の神様の神社「秋葉大権現」という神社があった。

当時の東京の間では「秋葉大権現」の方が身近にあり馴染み深かった。

でも、「鎮火社」は、東京の馴染みが全くなく覚えて貰えなかった。

なので東京に住む人は「鎮火社」を「秋葉大権現」と勘違いしてしまった。

そして「鎮火社」を「秋葉大権現」呼ぶようになってしまった。

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【偽名】

東京の住民は、この「秋葉大権現」略して「秋葉神社」と呼ぶようになる。

この「秋葉神社」の周りは、広大な原っぱになっていた。

これは大火事の時、ここだけは火の手が回らない様にする為だった。

そうすれば、庶民が避難してこれると言う事で避難所になる。

そしてこの原っぱが「秋葉原」と呼ばれるようになった。

戦後の闇市-2


【世紀末】

時代は流れ、第二次世界大戦終結後日本は、何も無いどん底の国になる。

当時の日本は、GHQという日本に勝った連合国軍の占領政策下にあった。

そんな時代生計を立てる為、秋葉神社の空き地の秋葉原に露店が出された。

販売品は、盗品や、米軍から払い下げられた軍用部品など何でもあった。

当時の警察は、権力などなく市民に殴られて退散する事もあった時代。

当然盗品を取り締まる事なんて出来なかった。

そんな荒れ狂っている状況の中にも、皆を束ねる1人のリーダーがいた。

戦後の闇市


【救世主】

そのリーダーの名前は「山本長蔵」

彼もまた戦後の貧困の中、生きる為に露店を開いていた人の1人だった。

「山本長蔵」がリーダーになれたには、理由があった。

それは、治安の良い露店街を作ろうとしていた。

その為に、関東最大のヤクザの親分や、警察と話をつけてきた人物だった。

そんな中「山本長蔵」には、1つの目標があった。

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【シム・シティー】

当時、人が集まる場所と言えば、国電の駅前だった。

その中でも、神田、秋葉原、お茶の水付近は凄い賑わいだった。

この駅には、中央線、総武線、山手線が交わり沢山の人が来る。

当時この駅周辺には、無数の闇露店が立ち並んでいた。

「山本長蔵」はこの露店を区画を整備し、店毎に解りやすくしようとした。

戦後の闇市-1


【開拓】

区画整備する場所は、特に賑わっていた神田駅から神田駿河台区間。

この区間には靖国通りがあり、ここに店を1直線に並べて繋ぐ計画だった。

ここに切れ目のない露店街を作れば、きっと繁盛すると言う着想だった。

そこで山本長蔵は、借金をし靖国通りの南側によしず張りの露店を作った。

その数なんと150店舗。

よしず張りとは、竹を繋げて壁や屋根にした物。

そして、ここで出店するお店を募集した。

よしず張り


【パレード】

募集条件は、闇市、酒、賭博の店を禁止にした。

その結果、60店位しか応募が無かった。

この店舗数だから客通りも少なく、寂しい露店になった。

そこで、更に借金をし近くの空き地に、有名人を呼んで客集をした。

ときには、歌舞伎の大女優市川紅梅もきたらしい。

しかも無料で、大園芸大会を開催した。

その甲斐あって、客足も増え出店者も増えて行った。

そして当時では、最大級の露天街まで発展させた。

大女優市川紅梅_edited

【出所不明のブツ】

この当時この露店街には、電気部品を売る店は1件も無かった。

1946年、山菊さんの露天でラジオ部品を販売したらバカ売れした。

それがきっかけで、みんな揃って電気部品を販売し始めた。

何故いきなり売れたのか?

それは、近くに電気学園という大学の学生が買いに来たからだった。

この当時、電気部品は希少でなかなか手に入らなかった時代だった。

GHQの監視で、兵器になる電気部品が規制されていた。

そこで、この露店に来れば気軽に手に入ると言う事で皆買いに来ていた。

真空管ラジオ


【闇商法】

山本長蔵は、電気部品がバカ売れだったので、これは商売になると考えた。

当時のラジオは、貴重な娯楽だった。

この頃、歌手の笠置シヅ子や、東海林太郎が大ヒットした時代。

みんなラジオで聞きたがっていたが、高価で買えなかった。

そこで、学生達がラジオを作り、格安で販売してくれて手に入れられた。

このラジオを農家に持って行くと、米一表と交換してくれた事もあった。

中には、山盛りの野菜と交換してくれた農家もあった。

米俵


【闇が光に】

山本長蔵は、日本が戦争に負けたのは、電気技術の差だと言っていた。

そんな気持ちがあり、電気部品を販売する店を重視して1か所に集めた。

結果、部品もお店も客も、たくさん集まってきた。

そして日本全国から大勢の人達が電気部品を求めて買いに来るようになる。

ここに来れば、電気部品は全て揃うという評判が広まっていった。

戦後の秋葉原


【クラウド・ファンディング】

当時のラジオは、鉱石ラジオという物だった。

これは、電源を必要としないラジオ。

空中を飛んでいる電波を、電気を通す鉱石でキャッチして受信する仕組み。

鉱石は「鉛」「銅」「鉄」等が使われていた。

当時の人は、こんな部品で作り、音が出るともの凄く感動していた。

この感動が当時のエンジニア達の情熱につながった。

真空管ラジオ-3


【未来構想】

電気部品を販売していた人達には、電気の事等何も知らない人もいた。

ただ、売れるから売り始めた人も、たくさんいた。

その中には、元将校、学者、大会社の役員等、インテリも多かった。

でも何も知らずに売っている人達も、売っている内に知識をつけて行った。

でも山本長蔵は、この先の時代は、露天ではなく店舗になると考えていた。

Pt2に続く。

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