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「スマホいじり」から「本渡りへ」脱スマホの実証


<スマホいじり>いい加減やめたい


気がつくとスマホで延々と(興味のない)Facebookの投稿を遡っていたり、Twitterの炎上と、それからそこに群がるしょ〜もないコメントを追ってしまったり、お笑い芸人がどんちゃんやっている違法アップロードの番組録画をYouTubeで延々と眺めていて2時間くらい経ってしまっていたりする。

ひどいときにはTwitterを閉じて、さて、Twitterでも見るかと思ってタイムラインを見てしまう。これには我ながら驚いた。スマホを取り出してからTwitterを開いて画面を更新→通知確認→メッセージ確認をする素早さはさながら西部劇のガンマンのようだ。

これってマジでなんなんだろう?



スマホ依存から脱スマホへ


これって明らかに僕のだらしなさ(僕がだらしないのはそうなんだけど)だけでなくて、もっと社会的な(?)問題なんじゃねーのぉん?!と思って、スマホ依存について調べるようになった。

ベストセラーにもなったアンデシュ・ハンセンの「スマホ脳」によれば、自分にとってメリットがあるかもしれない情報が出るかもしれないし/出ないかもしれないという終わりのないSNSの更新作業が脳の報酬領域をやばいくらい刺激しているという。それは、パチンコをやっている時の脳の状態と同じなんだと。古来より、木に登った先に実がなっているかどうかわからなくても「わからないからこそ確かめてみたい」と思って木登りしてみる猿の方が生き延びして進化したので、そういうふうにわからないものを確かめにいくときに脳の快楽物質が出るように人間の脳はできているのだそうだ。


それはそれで、理屈としては納得できたのだけれど、それでも「じゃあスマホと距離を置きましょう」というわけにもいかない。仕事でもプライベートでもスマホはなくてはならないものだし、どこか目的地にたどり着くのでも映画を予約するのでも調べ物について調べるのでもスマホは本当に便利だ。今更「スマホは脳を破壊するのでもう触りません」というわけにもいかないのだ。

そもそも冒頭のようにスマホをついつい触ってしまうのだってやりたくてやっているのではないのだ。とにかく依存性がやばいのだ。
スマホを触る回数を減らすのであれば、減らすための具体的な措置を用意しなければならない。タバコだって依存してしまったら、辞めるためには「じゃあもう吸いません」で済めばそりゃ潔いだろうが、ほとんどの人は禁煙外来に行ったり、周りの人に協力してもらったり、ニコチンパッチやガムを噛んだりして工夫をしながらタバコと距離をとっていく。

スマホは(完全に辞めるわけではないという意味において)タバコとは違うけれど、しかしただ闇雲に辞めようというのではなくて、辞めてどうするのかというところまで見通していかなければならない
そんなふうに思った。のだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか?


そんな中Twitterで「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本が発売されたと紹介されていて興味が湧いた。帯には「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」とある。俺じゃん。


そうなの!疲れていると本が読めないのだ。
本当に疲れると漫画すら読めなくなる。変に読書好きの自覚はあるから無理して読もうと思って本を開くのだけれど字が読めない。視野が上滑りして文章を辿ることができない。これが辛い。ここまで疲れていなかったとしても、学生の頃は何時間でも夢中になって本を読んでいたのに、今ではページを2ページくらい進めると気づけばスマホでちらっとinstagramを確認したりしている。働いていると本が読めなくなるのは実感としてガチで、そしてそれは多くの人の共通認識として正なのだろう。


なんか売れまくっているらしく、本屋さんを3件まわったけど手に入らなかった。どこにもない。仕方がないのでkindleで購入して読んでみた。結果としてなかなか面白かった。

(良い意味で)この本は"なぜ働いていると本が読めなくなるのか"について書かれた本ではない。明治以降の働く人々と読書の関係を歴史とともに追っていく労働史だ。歴史を紐解くと、ビジネスマンは昔から自己啓発本とともにあった。農家の家はずっと農家、漁師の子は漁師というように家柄で身分が固定化されていた江戸時代から、明治時代に入り個人の能力と努力によって立身出世できるという考え方が流布したことで、自分の能力を開発すること=自己啓発が盛んになったのだ。自己啓発本の歴史もなかなか面白く、SPACTATORの「自己啓発のひみつ」特集も買って読んでみた。こちらも非常に面白かった。世の中は自己啓発本で溢れている。


加速する世界の中で

結局のところ「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」に対する本書の結論を一言でいうなら、現代人にとって本はあまりに無駄が多すぎるから。ということだ。ネットの発達によってあらゆるものが高速化し、新自由主義の台頭により全てがコストとパフォーマンスによって価値づけられる現代において、映画も漫画も読書も"できるだけ手っ取り早く必要なところだけ拾えればそれでいい"情報に過ぎず、情報に過ぎない以上、情緒やノイズは時間の無駄なのでYouTubeの要約動画を見ればそれでOK!という対象に捉えられてしまう。コスパ第一の現代とそこに生きる我々は散歩や雑談やベランダでぼーっとする時間や読書はできる限り切り捨てるべき無駄であり、コストでしかない。
実際にはYouTubeの要約動画には紹介されていないちょっとした本のコラムが面白かったり、妙に心に残ったりするものだけれど、それらのノイズを味わう余裕が我々にはないのだ。ノイズを味わう余裕のなさ。これが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の答えだったのだ。

この本が面白くてもっとスマホと自己啓発について調べてみたくなった。このあらゆるものが高速化している時代においてスマホをいじりながら、「これじゃダメだ、こんなことしたいわけじゃない」と思っている自分は確かにここに存在している。

で、なぜダメなのか。
そして、こういうことをしたいわけではないのなら、他に何をしたいのか/するべきなのか」

僕は次にファーストフード化のように消費されるコンテンツについて調べてみようと思い、「映画を早送りで観る人たち」「ファスト教養」を読んでみることにした。



今すぐ役に立つ教養を信じていいのか?

「ファスト教養」において著者は<教養>という言葉が実に安易に使いまわされていることを指摘する。「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」や「世界のエリートが学んでいる 教養書必読100冊を1冊にまとめてみた」など、<教養>というのが<ビジネスマンが明日から使える雑学>くらいの意味合いとして使われるようになっているということだ。言われてみれば、教養という文字を眺めてみると"ビジネスマンが身につけておくことで差をつけられる情報"というような意味合いを含んでいる気がしてくる。

ビジネス書コーナーやYouTubeではホリエモンやひろゆき、Daigo、中田敦彦、池上彰、佐藤優といった論客なり実業家なりコメンテーターが「これをやるやつはバカ」とか「集中力が10倍になる方法」とか「知らないとやばい」とか「10分でわかる教養」とか言って視聴者を煽っている。

<教養>というのは本来仕事に役に立たなくても、学ぶことそのものに対するリスペクトや面白さから自発的に学ぶことで得られるものであったはずで、他者から煽られたりお勧めされて手に入れるものではなかったはずなのだ。考えてみれば「今すぐ役に立つ知識」を学ぶということは今後古くなっていく価値観に追随することに他ならず、その意味において「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる」というのが自己啓発本の本質なのだろう。

スマホとSNSによって追い立てられている我々は何を失っていて、これからどうすればいいのかについては色々な本でも注釈として登場した「退屈とポスト・トゥルース」と「スマホ時代の哲学」を読んだ。


ネットにゆるやかに接続されて寂しさは増長する

スマホが我々から何を奪っているかというと「孤立」と「孤独」だ。「孤立」と「孤独」も全くない方がいいならそれに越したことがないと思う人もいるかもしれないけれど、哲学で頻繁に登場するこれらの言葉の意味を加味して考えると「孤立」も「孤独」も人間が生きる上ではなくてはならないもので、これが欠けていると人は他者に依存する生き方をするようになる。


僕たちは会社員としての自分や親に対しての子供としての自分・Twitterの自分・FaceBookの自分、など無数の自分を使い分けており、本当の自分というものは存在しない。どれもが自分であり、場合によって使い分けるのが人として普通の姿だ。

孤立を避けてSNSに依存することによって、SNS上の自分の人格が一枚岩のようになってしまい、色々な自分がいるという原点に帰って来れなくなってしまう。どの人格なのか確定しないままの原点に帰らず、「孤立」も「孤独」もない我々は新自由主義(=ポストフォーディズム)の刺激に煽られるようにしてスマホをタップし続けて、「快楽的なだるさ」から抜け出すことができなくなってしまう。ニーチェはこれを「君たちは自分自身を忘れて、自分自身から逃げようとしている」と表現した。

この感覚から抜け出すための方法については「何もしない」「暇と退屈の倫理学」「<私>を取り戻す哲学」を読んだ。





オードリー若林と哲学

ちなみにこの「暇と退屈の倫理学」の帯はなぜかオードリーの若林が書いており、「まさか哲学書で泣くとは思いませんでした」と寄稿していてすごく興味をそそられたのだ。なぜお笑い芸人が哲学書の帯を…??



文學界2023年10月号を読んでみると「暇と退屈の倫理学」の筆者である國分功一郎さんとオードリー若林が対談している。しかも「ビッグモーター化する社会」という題材で内容が死ぬほど面白い。もっとより良くなりましょうという社会の圧力の中でどうしていくのかについて哲学者と対談する若林。すごい。なんでこんな喋れるんだ。実は頭がいいのか..?



オードリー若林とキューバ

気になって若林のエッセイ「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読んでみたらこれがすんごい面白かった。若林はあるときテレビのニュースを見ながら「大人になったにも関わらずニュースで言ってることが何一つ理解できないことに危機感を感じ」「家庭教師を個人的に依頼してマンツーマンでとにかくわからないことをひたすら聞きまくる(資本主義って何?)ことで勉強をしていった」のだという。

そして、この抑圧された感じが新自由主義によるものだとわかり、逆に資本主義に覆われていない国に行ってみたい!という思いからキューバに旅行に行くことになったーという話だ。本当に面白かった。というか、成功を収めて国民的なお笑い芸人になった若林が、ニュースの内容が全然わからないことを自覚する瞬間が正直ですごく感動したし、そこから家庭教師を雇ってまで(忙しいだろうに)勉強する姿勢が本当に良かった。
胸を打たれた。


前述の「<私>を取り戻す哲学」もかなり面白く、この本で紹介されていた「勉強の哲学」「動物化するポストモダン」も買ってみた。「勉強の哲学」は読み終わっているが、後者はこれから読むのですごく楽しみだ。


いや終わらない。マジで面白い。


リレーを続けるということ


このようにしてリレーをするように、あるいは伝言ゲームをするように本を読み渡っている。
ちゃんとしたまともな本には注釈や参考文献が載っており、章ごとに「こういうことに興味があるならこの本も読んでみれば?」という次の学習への梯子が用意されているのだ。これを着実に繰り返していくと、なんと読書が永遠に完結しないのだ(笑)


興味のある分野(今の僕でいうと「新自由主義」「ネガティヴケイパビリティ」「自己啓発本」「ポストトゥルース」など)について本を読むと、1冊につき3冊は新しく読みたい本が出てくるので実質読書が完結しない。そして僕は「なぜスマホをいじり続けてしまうのか。それをやめてどうすればいいのか」が知りたくて元々は読書を始めたはずなのに、読書をすればするほどわからないことが増えていく。「…ってことはこっちはどういうことなんだろう?」という具合に興味とわからないことは増えていくばかりだ。


学ぶことが脱スマホのヒントになる

読みたい本が多すぎる。今、僕はスマホをいじる暇がない。
集中して本を読みたいし、次読む本が積み重なっているからだ。本を読めば読むほど学びたいことは増えていくし、そしてそれはYouTuberにお勧めされたからでもなければ自己啓発本に書いてあったからでもなく、ましてやビジネスに役立てるためでもない。

ただ学ぶことが面白く、それが心を豊かさにしている感覚がある。SNSからは遠のいて、孤立したり孤独になったりすることも増えたけれど、著者との対話や、自分との対話の機会がすごく増えた気がする。それはすでに気づかないうちに「なぜスマホをいじり続けてしまうのか。それをやめてどうすればいいのか」を一旦解決しており、そして今の所調べ物が終わる気配を見せない僕は、新自由主義から突き抜けた教養の道のスタート地点に立てているような気がしてならないのだ。


ちなみにこれから読みたいと思っている参考図書は以下の通り。
早く届くといいな。




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