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現代恋愛と同調圧力ー「素でいられる」理想の恋愛

大学で恋愛文化史を講義するようになり、はや10年になろうとしている。毎年数百人の学生相手にアンケートしている。その項目の一つに「貴方にとって理想の恋愛とは?」というのがある。

福岡の中堅私立、しかも女子が9割を占める教室でのアンケートであるが、調査を始めて以来ダントツの第一位の答えがこれである

「素でいられる相手との恋愛」

そんなに素でいられる相手が大事か?その関係に惹かれるのか?ウラとオモテを使い分けるのが苦手な僕は、素でいられる、というのが最重要要素だとは思えず、ずっと疑問に思っていたのだが、今日はそんな若者の恋愛意識についての考察。

新村社会はまだ…

大学で授業をするにあたり、若者の意識でも勉強するか、と思って読んで衝撃を受けたのがこの本、原田曜平の『近頃の若者はなぜダメなのか、携帯世代と新村社会』。SNSに疎かった僕にとって、テクノロジーがどれだけ日本の同調圧力を加速させているのか、その変化にビックリしたのである。

学生に、本の内容を解説して、原田さんの分析は正しいかどうか?と聞くと、ほぼ全員一致で、正しい、という答え。原田さんのリサーチの正確さに敬意を払う。流行語を作り出すのは凄い。これは10年たってもまだ有効な言葉である、というのが僕の肌感である。

そしてだからこその、この恋愛の理想である。日々同調圧力にさらされ、彼氏、彼女の親密な空間でさえ、いやその場だからこそ、同調圧力の力学が強く働く。古風な価値観が残るとされている九州であれば、男性中心的な、ジェンダー規範が猛威を振るい、そのなかで恋愛しなければならない。つまり、女子にとってはかなりの無理ゲーである。素でいられる、というのが第一条件に来るのも納得できる。

同調圧力の外からの視線

しかし、時代の変化にはホントにビビる。僕が若者だった頃、まあそれはそれは変人、世捨て人、みたいによく言われていたが、まあ割と存在を許してもらってるところはあった。無論、空気読めタカミ、と怒られたことは数知れず。当時は自閉症でもADHDでもないと思っていたので、無駄に合わせようとして、色々もがいていた時期でもあったが、その時にもやはり日本文化にあるあるの同調圧力、空気の政治のベッタリ感には苦しめられた。だからこそ、フランスに行って、解放されたし、個人でいてよい、そうでなければむしろダメ、という生き方が好きで好きで、本当に生きていて楽しかった。

留学が終わり、教師として大学に勤めはじめてビックリである。学生達は、凄まじい同調圧力の中を生き抜いているではないか。僕にしてみれば、ヤクザやマフィアより、遥かにタチが悪い世界であった。

幸いなことに先生というのは、教室の中で絶対権力を持っていて、空気を作る権利があるので、割と好き勝手やらせてもらえた。同調圧力の中でしか生きたくない、と思っている学生には災難だったかもしれないけど。何しろ大学だったので、何とか生き延びてこれたが、生徒の反応、同僚の反応を見るに、日本は僕の住む世界ではないなーという感はあった。やばいよなー、やっぱり。

同調圧力から比較的外にいる視点、特にフランスで散々体感して、自分でもそう振る舞っていた個人主義的な視点、そこから日本の若者の恋愛を見ると、それはそれは面白い。

個人主義と和合主義が恋愛にもたらすもの

恋愛は西欧の個人主義から生まれた制度である(詳しくは以下の拙著)。

恋愛制度、束縛の2500年史~古代ギリシャ・ローマから現代日本まで~ (光文社新書) https://www.amazon.co.jp/dp/B07L5PCNWR/ref=cm_sw_r_cp_api_glt_VDDNR480FNCP86CN30PW

欧米的個人、つまり世間の荒波を自分の価値観で自由に切り開いていかねばならない、孤独な存在、独立した存在。そんな個人が、どうしようもなく相手に合わせなくてはならない、元々、違う個性を持った個人が、身体的にも精神的にも、同調、シンクロニゼーションを欲望してしまう、それが西欧型恋愛である。そこには個の激しいぶつかり合いと、それを許し、認める許容力、包容力が求められる。そのせめぎ合いで恋愛文化が紡がれてくる、と見ることは出来る(ジェンダー論的には、やはり女性が権力を持たないので、合わせざるをえないことにはなってるのだが、ここら辺は凄い複雑なのでまた別稿で)。

ところが個人を前提としない日本の恋愛、特に若者の凄まじいほどの同調圧力を前提とした恋愛は、向かうベクトルがかなり捻れている。つまり、ねっとりとした同調圧力がまずは出発点。お互いの差、趣味、人生の価値観、言葉のリズムの違い、などなど、そんな違い、ズレの存在を隠蔽し、オモテとウラで、ホンネとは違うタテマエで、同調するフリをする。相手に好きになって欲しい、相手の気を引きたいと思えば思うほど、まずは同調するところからはじめるより他ない。そして疲れる。自分軸でないとそれは疲れるのである。付き合いが長くなるに連れ、隠し難い性格の不一致、価値観の違いが浮上する。

このプロセスは西欧型の恋愛でも実はかなり同じである。相手の気を引くために、様々な嘘をつく、カッコつける。これは欧米型の恋愛でも常に起こることである。だから、程度問題ではあるのだが、同時に根本のところで、個人の違いを認める前提にたつか、そうでないか、というのはかなり出発点が違うように思える。特に女性側、合わせてなんぼ、可愛くて、逆らうことは避け、同調してなんぼ、の価値観を激しく内面化してる日本女子の場合には、色々と難易度が増す。

そりゃ、疲れるよなあ、と思う。恋愛離れも進み、パートナー探しの難しさも増すのは当たり前か。まあこれも世界的な傾向ではあるが。

個人主義を前提とする西欧型恋愛にあって、和合主義を前提とする日本的な恋愛は、結構な恋愛亜種にはなっていると思われる。

しかしながらこれはチャンスである。うまい方向性を考えてあげれば、世界スタンダードの恋愛とは、カッコよくズレた感じになりうるのだ。日本は絶対においしい。極東に位置するので、西側から伝来した文化が溜まり、独自の圧力がかかり、個性的な展開を見せるのは日本文化のお家芸である。そんな感じは日本語というOSに絶対にインストールされているはずなのである。どうしたものか。

恋愛と欲望の日本的な解放

日本の女子学生にあって、欲望の解放はどこまで可能だろう?恋愛の解放はどこまで可能だろう?そもそも日本的な和合主義の縛りを西洋の個人主義的基準で「解放」してよいのだろうか?グローバル化の中で、女性の権利、男女平等、フェミニズム、ダイバーシティ、なんてものがどんどん基準にはなり、この流れは止めようがないので、その方向性に流れていくのだろうけど。どっこい日本語の言語文化のねっとり感は侮れない。多分、仏教の日本化しかり、明治維新しかり、このダイバーシティも日本化してるし、さらに変な方向に進化するんじゃないだろうか。日本的な「和」の、ねっとりベトベトな同調圧力、共感の魔力を中和出しつつ、新たな社会へ。SNS社会で、跋扈する「共感」というジョーカー、見たいものしか見なくなる島宇宙化(宮台真司)、そんなものをジャンプ台にして、別の価値観へ。日本にもっとハーフが増え、外国人が増え、多様性が増して、「共感できる」「共感できない」で、排他的な集団を作る、弱さと愚かさ、それを許し、包摂し、共感の共同体を解体し、別のコミュニティに開いていく。その中で、同調圧力を否定するのではなく、うまく利用すること。どうにか日本的な欲望解放、恋愛解放のノリを作りたいものである。マイノリティのゲリラ的な言語闘争は終わらない。

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