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世界は一つの家族である

先般G20がインドであり、モディ首相のリーダーシップというかインドの世界での立ち位置というのをあらためて見直し、感心しました。

日本は今年G7の議長国ですが、何も生み出すことは出来ないし、言いっぱなしの姿にがっかりしています。まあ国内政治を見てもモディ首相のような未来に向けて世界を変える、社会を変えるという覚悟もこれぽっちも見ないので、彼の手帳は空白なのでしょう。

今回トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」に続く大作「資本とイデオロギー」を読んでいます。

ピケティ氏のまとめとしては

「イデオロギー闘争と公正の探究のためには、立場を明確に定義し、想定した対立を明示しなくてはならない。本書で分析した経験に基づき、資本主義と私有財産を超克し、参加型社会主義と社会連邦主義に基づく公正な社会を確立することは可能だと、私は確信している。その第一歩は、社会的、一時的な所有権レジームを確立することだ。これには労働者と株主の権限共有と、議決権の上限設定が必要であり、また、累進性の高い資産課税、ユニバーサル資本支給、資産の永続的な循環も求められる。加えて、累進所得税と集合的な炭素排出規制を設けて、そこからの税収を社会保険、ベーシックインカム、エコ社会への移行、真の教育的平等の財源にしよう。最後に、グローバル経済を共発展条約によって再編し、条約の核心に社会、税制、環境の公正についての定量的な目的を置き、その達成を貿易と金融フローの条件にすべきだ。この法的枠組みの再定義には、既存条約の一部、とりわけ1980年代と1990年代に導入され、こうした目標を阻んできた資本の自由移動に関する条約を破棄し、金融透明性、税制協力、超国家民主主義に基づく新しいルールで置きかえる必要がある。」

というもので、これは「21世紀」で示された通り。
しかしこの「イデオロギー」でとても特徴的、「21世紀」と異なるのは、著者も示しているように、欧米視点でなく、アフリカ、インド、ユーラシア(含む中近東)といったそれぞれ固有の社会、歴史を持つ国々からの示唆を入れている点にあります。

中でもインドについては多くのページが割かれていますが、確かに学ぶことは多くありますし、なんとなくインド=貧困=カオスというイメージが刷り込まれているものの、インドは英国の植民地以前からのさまざまな問題点(特に宗教、民族、そしてカースト)を徐々に解決していくステップの途上にあることが分かります。それは決して欧米主導ではなく、問題はありつつも、インド自身で国内の相克を乗り越えている姿があるようです。

ピケティ氏は、世界共通の支配構造として「三機能主義」「三層社会」を提示し、3つは聖職者、貴族、平民。あるいは聖職者、軍人、平民としてそのうちの聖職者と貴族(軍人)での権力闘争、権力の行き来について書かれています。現代国家もまたこの三層社会の階級闘争の子孫であることは間違いありません。

これを読んで、本には書かれていませんが、日本も権力の強い順に

平安中期まで 1 貴族(天皇) 2 軍人(武士) 3 平民
江戸時代まで 1 軍人(武士) 2 貴族(天皇) 3 平民(農工商)
明治以降   1 官僚(天皇) 2 軍人    3 平民
戦後     1 官僚    2 その他

という構造の推移でしょうか。今日本がスカスカなのは序列の1と2の間で権力闘争、あるいはけん制し合う構造がなくなったからのように思います。

ピケティ氏はこの「三機能主義」「三層社会」から歴史、今を紐解いているのですが、それが前述のようにアフリカ、インド、ユーラシア(含む中近東)それぞれの歴史、今もまた存在していることに驚きます。

国という中でうまく経営(?)するのは単独独裁ではなく、この三層の内、上位二層がコインの裏と表のように緊張関係、また補完、忖度し合う関係になっているようで、片方だけで独走するようになると独裁国家のレッテルが貼られるのではないかと思います。

かつて西欧カトリック社会では王(指導者)が教会のお墨付きをもらうのが強権の裏付け(王権神授説)で、形式的には絶対君主制でも、1と2の間には対立と補完する機能がありました。

今のイランはホメイニ・ハメネイ師の宗教指導者が大権をもって政治を動かしているので、宗教指導者の独走にあたりますから独裁国家扱い。

プーチン大統領は自身が独裁をする中で、ロシア正教の裏付けを利用していますから、こちらは必ずしも独走ではないかもしれません。

中国の習近平国家主席ですが、あそこはマルクス・レーニン主義なので宗教の裏付けはありませんが、それでも「毛沢東主義」という宗教然としたものが裏付けであり、北朝鮮も同様に「チュチェ(主体)思想」と「白頭血統」の正当性を一種の宗教として使っていますが、それぞれ聖職者という存在はなく、観念上のものですから、現状のように独走可能な独裁国家になるのでしょう。

日本は?天皇家は国家神道の足場が崩れているので、神事はしても、すでに聖職者としての国家指導者としての扱いはありません。戦後は前述のように官僚一強体制ですから、役人の頭数は多いので単独ではありませんが、官僚(グロス)独走の独裁国家になっているのかもしれませんね。

さて、インドですが、本当にこの「資本とイデオロギー」で一番面白いところでしたので一読をお薦めします。

先日テリー・ライリー氏のスイッチインタビューのことを書きましたが、テリー氏はインドの音楽家ラーガの歌い手「パンディット・プラン・ナート」の所に20年以上弟子入りしていたそうです。「インド音楽からうけたインスピレーションは何か」と、インタビュー相手の久石譲氏から問われたのに対して、「自然に合わせて音階が変わる。西洋音楽では表現されない自然と音階の繋がり、音階ごとにある特別なチューニング。平均律ではない豊富さ、リズムの複雑さ」にあるような答えでした。
それに対して久石氏が「私も興味があるけど、お腹を壊すから行けない」という笑い話をしていて、こりゃ役者が違うなと思いましたが、久石氏がそう言うのも、日本人にインドの表面的なイメージが刷り込まれているからではないでしょうかね。

いずれにしてもインドのことはもっと学ぶべきところがあるように思った次第です。音楽だけでなくインド固有の「表現されない文化の豊富さ、社会の複雑さ」がインド社会、政治にもあるようです。そして、なんといっても長い時間軸をかけての着実な変革、変化を遂げる国民の合意、意思がそこにはあるように思いました。

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