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「神」と「楢山節考」

フェルディナント・フォン・シーラッハの新作「神」。前々作の「テロ」は法廷劇でしたが、この「神」もまた公開討論会を舞台の劇(戯曲)です。

こちらの方が内容が少し見えるので貼り付けておきます。

ここにもあるように自死を望むゲルトナーに対して自死の幇助は許さるか否かを倫理委員会(公開討論会)のかたちで「法学者」「医者」「神学者」がそれぞれの立場で論を述べるというもの。

先ずは冒頭に「ティール司教以外の役は性別を問わない」という設定書きがあり、これに感心しました。
と同時に読んでいくと確かに性別を問わないと言いながらも各登場人物の声が男性の声に聞こえてしまうのは、日本語訳の問題なのか、あるいは自分の固定観念の刷り込みの問題なのか、はなはだ混乱もしました。
日本だけなのでしょうか、こういう公開討論会は男性ばかり、いや権威者が男性ばかりというのは、長年のガラスの天井によるものか。

そう言えば同級生が日本眼科医会の会長をしていますが、こういうのが普通であって欲しいものです。
この「神」の主人公(自死希望者)の、20年来のホームドクターの役割をしているのが眼科医のブラント医師。主人公の目の手術をしてから信頼関係が生まれ、それから自死についての相談を受けた人です。
なるほど、眼科医だからといって、こういった自死幇助とは無縁ということではないでしょうね。

この本の最後に倫理学者の「ハルトムート・クレス」「ベッティーナ・シェーネ=ザイフェルト」刑法学者の「ヘニング・ローゼナウ」のそれぞれのコメント、意見が述べられていて、これも読みごたえがありました。

ただこれを読んでいて日本とドイツの違いというのも感じたのですが、それは深沢七郎の「楢山節考」が浮かんだからです。
あれは貧しい山村の口減らしで高齢者が山に捨てられに行くという話ですが、決して珍しい話でなく、柳田国男の遠野物語 §111「ダンノハナと蓮台野」にも出てくる話。

「山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナといふ地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野といふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追ひやるの習ひありき。老人はいたづらに死んでしまふこともならぬゆゑに、日中は里へ下り農作して口を糊らしたり。そのために今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといひ、夕方野らより帰ることをハカアガリといふといへり。」

野良作業が終わって山に戻ることを「墓上がり」、墓に入るというすごい表現で今更ながら驚きます。
姥捨てを淡々と受け入れる老人(すでに私は60越えているので該当します)とそれを送り出す家族。楢山節考は送り出す息子の葛藤が中心で、捨てられる老婆(映画は田中絹代・坂本スミ子)は淡々と受け入れる姿、その心情は必ずしも表に出ない印象がありますが、それこそが日本人の持つ死への旅路への淡々とした心情なのかもしれません。

この辺りが「神」と違う所で、「神」は主人公が望む自殺幇助を受けるために戦う姿が見えるのですが、「楢山節考」はただ受け入れるだけ、ただ送り出すだけ、送る(背負う)息子に葛藤はあっても戦いはありません。
蓮台野に送られた老人もただ受け入れるだけで、読者の我々もまたそのことを「ああ…」とため息とともに深く受け入れる民族なのでしょう。

その違いを強く感じるのは、カトリック司教会議の信仰委員会メンバーであるティール司教の断固とした発言です。司教の定義が、キリスト教という絶対のゆるがせない教義に基づくものであり、それに対する私の「楢山節考」的違和感からなのでしょうか。

最後の解説に「宮下洋一」氏は、西洋と日本の違いについて

「彼らは、公然と『死ぬ権利』を主張するように、個が尊重される社会で生きている。言い換えれば、個人が選択する死が憚られることも少ないということになる。それに対し日本は『死ぬ権利』はおろか、自己決定そのものが難しい社会だ。ここに西洋と日本の確たる差がある。」

なるほど、日本は死ぬ権利・自己決定を棚に上げて、集団(村・部落)の意思が揺るぎない上位に置いているようです。
つまり「安楽死」は自分の為ではなく、家族や周囲に迷惑をかけないためという、決定軸の視点が自分からのものでなく、周囲から見て、にあるように今更ながら思うのです。

また宮下氏は最後にこう締めくくっています。

「現時点で重要なことは、日本独自の死生観を探求することではないか。安楽死の是非論は、その理解を深めた上でようやく始まる。人には人それぞれの生き方があり、死に方がある。誰もが納得できる『良き死』など、実際にはどこにも存在しないのではないだろうか」

タイトル写真はルオーの「聖顔」の一部です。

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