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ポテサラ論争に関する流れと所感

あるツイートに端を発するポテサラ論争は、冷凍餃子や唐揚げなど品を変えつつ、一ヶ月たっても話題になり続けている。

この一連の騒動は個人的に興味深く、(ガッツリ追うわけではないが)チラチラと見ていた。

1.概要

きっかけになった最初のツイート。

みつばち @mitsu_bachi_bee
「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」の声に驚いて振り向くと、惣菜コーナーで高齢の男性と、幼児連れの女性。男性はサッサと立ち去ったけど、女性は惣菜パックを手にして俯いたまま。
私は咄嗟に娘を連れて、女性の目の前でポテトサラダ買った。2パックも買った。大丈夫ですよと念じながら。
午前8:09 · 2020年7月8日

この発言の是非や、こういった発言が発生する背景に対して非常に多くの人が反応をしたことで、妖怪ポテサラじじいは一躍時の人となった。

そして一ヶ月後、第二のポテサラじじいが発生した。

ponkotsu @ponkots15493241
夜ご飯しんどくて冷凍餃子にしたの。
長男が『ママ餃子美味しい!』って喜んでたの見て旦那がすかさず

『手抜きだよ。これは れ い と う っていうの』

この人ポテサラじいさん予備軍みたいなんで埋めるか打ち上げて良いですか
午後8:07 · 2020年8月4日

さらに、こういった騒動を受けて街頭インタビューを行ったテレビ番組で、「唐揚げは手抜きだと思う」という趣旨の発言をした男性が現れ、これまた話題になった。

いずれの場合も、特定の料理の調理コストを軽視した発言をする男性に対して、大勢の人(その多くは女性)が反論・異議を申し立てる流れとなっている。
その反応のパターンは、大別して次のようになる。

2.反応パターン

2-①.〇〇は手抜きではない
アイコンになった料理はいずれもポピュラー家庭料理だが、それらの調理には相応の手間と時間を要するという意見。
また、調理後の後片付けも含めれば総作業量はさらに膨れ上がり、かつそういった作業を毎日繰り返さなければいけない。
家事作業は必要不可欠でありながらその労苦は可視化されず、正当な評価を受けていないことに対する憤りが背景にある。

2-②.文句があるなら自分で作れ
調理に必要な作業量を知らないために一連の発言が出てくるのだから、実際に体感させればいい、という案。
手を出さずに口だけ出す相手への不公平感が感じられる。

2-③.手抜きの何が悪い
調理時に手を抜くことに後ろめたさを感じる必要は無いという主張。
手作り信仰や「成果より苦労」を重視する風潮への反感、時短・効率化といた概念と正反対の前時代的発想への反論や、「育児下で調理時間を確保するのは極めて困難」という実際上の問題など、その理由は様々。

2-④.発言者への攻撃
発端となった無神経な発言をする個人への攻撃。因果応報的な発想によって誹謗中傷を正当化。
発言者の配偶者に対する非難も含む。

この他、「安易にムーブに飛びつくのはいかがなものか」のような反応に対する反応なども見られた。

3.騒動の背景

非常に大きな広がりを見せた背景には、①伝統的・文化的な男女間の断絶 ②頑張りを重視する風潮 ③手作り信仰 の3つがあるように思う。

①伝統的・文化的な男女間の断絶
純粋に料理の手間のみを論じるのであれば本来性差は無関係なのだが、今回の一連の騒動を見ているとこの点を強く感じずにはいられない。
日本では戦後の高度経済成長期に「男は会社勤めで妻子を養い、女は家事・育児で家庭を守る」という核家族のイメージが一般化した。
そのため、「稼ぐことが男らしさ」という考えから金銭的な収入につながらない家事労働の価値を認めず、女性は「家事を女らしさ」と捉え、スムーズな家事分担がしづらくなる。

一連の騒動の発端はいずれも女性が料理を担当し、それに対して男性が文句を言う形になっている。
男女間の認識に断絶があるからこそこの騒動を対立構造で理解し、多くの人が自分の生活でも思い当たる節があり、この話題について一言言いたくなったのではないかと思う。

もし例えば「パーシャルは手抜き。HM版ウインドブレードの太ももくらい新規金型で作ったらどうだ」というツイートなら、「ハァ?」と、誰の目にも止まらなかっただろう。
ただ単に「調理のコストを知らない人がいた」という個人の問題ではなく、「男性は女性が担う労働の価値を軽視している」という社会全般の問題だと感じたからこそ、多くの人が言及したのではないかと思う。

②頑張りを重視する風潮
手抜きか否かという論争には、手抜きは良くないという価値観が背景にある。手抜きは悪くないという主張も、同様の価値観が広く普及していることの裏返しだ。
手を抜くこと、楽をすること、苦労をせずにトクすることは、卑怯なことである。額に汗して得たものこそ美しく尊い。
……こういった考えは、料理以外でも感じる場面が多々ある。

例えば、児童の健康と安全を考えれば甲子園はドームにするべきだと思うのだが、そういった動きは特にない。
熱中症は人命にかかわる災害にもかかわらず、炎天下の中で体を壊すまでボールを投げ続ける児童を見て、多くの野球ファンは涙する。無論、残酷さのためではなく、頑張る姿に感動するからだ。
十代の児童が怪我をする姿を見世物にするのは、コロッセオで奴隷や猛獣の殺し合いを楽しんでいたのと何が違うのか、僕にはよくわからない。

が、なにせ「中学生が素手で便器を掃除すること」が美談として語られるお国柄である。
まったくもって非効率だし、衛生上たいへんな問題があるし、素手で便器を掃除するスキルを身に着けても社会では何の役にも立たない。
リクツで言えば無意味どころか児童の心身の発育に害悪だと思うのだが、それでもこういった理不尽に黙って従うロボットを製造することは美談になる。

上の指示に盲目的に従うロボットを製造した結果、「定時で帰ると白い目で見られるから、残業するフリをしている」なんて周囲に合わせる話はちょくちょく聞く。
「冷凍餃子を使うと手抜きと言われるから、毎回手作りしている」と同じ構造なのだが、前者は改善するべきで後者は据え置くべき理由はなんだろう?

「残業をして自分の時間を使う」「熱中症になって自分の命を顧みない」「素手で便器を掃除して感染症になる」といった”頑張り”は、我が国ではとても神聖で美しいものなのである。
当然、家庭でも同じロジックが適用される。
味や効率などではなく、手を動かして料理を作ること自体に価値がある。「家事こそが女らしさ」と合わせれば、「料理を手作りしない自分は母親失格だ」という強固な自己否定に繋がることになる。

③手作り信仰
半調理レトルトが人気なのは、食材を加えるなどのひと手間をあえて加えることで、手抜き感を減らしたためだという。
時間が無ければレトルトだろうがコンビニ弁当だろうが何でもいいと思うのだが、ほんの僅かでも「手を加えた」という言い訳を与えないと罪悪感をおぼえるほど、調理をしないことは罪深いというわけだ。

レトルトといっても、別にマズいわけではない。たいていのレトルトはそこそこウマい。
なぜレトルトが罪悪なのか。
思うに、「作ってあげられなくてごめんね」は、「(健康にいいものを)作ってあげられなくてごめんね」ではないだろうか?

例えば保存料は食中毒のリスクを下げるが、「不自然なものだから体に悪いに違いない」というイメージを持つ人は多い。食中毒よりも健康の敵だと思われているフシがある。
多くの食品で”無添加”をうたう表示をよく見かける。実際は添加物が使っているのに事実に反する表示だったり、一般的に同種の食品に使用しない添加物まで無添加・不使用を表示するなどの問題もあるが、その根底には「無添加のほうが安心」というイメージがある。
逆に、「天然もの」「自然のまま」「素材本来の味」といったワードは、なんとなく健康によさそうで、味のいい印象がつきまとう。

食材を用意して一から十まで自分で作ったほうが、各材料の”自然な”状態を見ているため、なんとなく安心なのだ。
出来合いの惣菜やレトルトは、原材料が文字でしか見れないので、なんとなく不安なのだ。

子供の健康を願うのは当然のことだと思うが、その手段に科学的な根拠があるわけではなく、ただた単にイメージの問題である。
が、たいていの人は科学とは別のロジックで動いているので、それだけで”無添加”を好む十分な理由になる。
科学的な根拠は無くても、ふわっとした理由で行動を制限してしまうのは、まさに手作りへの信仰といっていいだろう。

以上、騒動が大きくなった理由には上記3つがあるのではないかと思っている。

まとめると、以下のようになる。

多くの家庭で家事を担うのは女性側であり、彼女たちは「頑張って料理しなければ」と思っている。強制されたわけではなく、本心からそう思っているのだろう。
が、一度高いハードルを内面化してしまうと、手を抜いたときに「女なのにできなかった」「母親なのにできなかった」という自己否定につながるプレッシャーになってしまう。
そこに、そういった苦労を共感しようとしない男性が追い打ちをかけるように女性の抱える負い目を指摘したことで、不満が噴出した。

というのが、ポテサラに始まる一連のツイートが騒動に発展した理由ではないかと思っている。

4.発展性の無さ

一応意識して”騒動”と呼んできたが、このポテサラ騒動は、運動になっていない。
#MeTooや #KuToo、#検察庁法改正案に抗議します といったここ最近のTwitter発の社会運動に比べて、ポテサラは愚痴の域を出ていない。
何か裁判が必要なわけでなく、大勢が声を上げることで意識改革に繋げられるトピックだと思うのだが、そういった動きにはなっていない。
パッと思いつく理由は、①目的の分散 と ②ストライキのしづらさ だろうか。

①目的の分散
何か変化を起こすとき、シングルイシューのほうがわかりやすい。
「NHKをぶっ壊す!」と言われれば、賛成にしろ反対にしろ自分の意見を言いやすくなるが、争点がどこにあるのか分からない状態では判断がしづらい。
「冷食は手抜きじゃない」「手抜きで何が悪い」「自分で作れ」と喧々諤々な今のままでは、運動にはならないだろう。

②ストライキのしづらさ
世界で最も男女平等な国のアイスランドは、75年に1日だけ女性人口の9割近くが仕事や家事育児をストライキしたことで、男女間の不平等を大きく改善させたという。
ストライキは非常に効果的な訴え方ではあるものの、現代日本で育児ストライキはムリだろう。そんなことをしたら、女性への非難轟々である。
結局引き受ければ容認していることになるので、これからも変わることは無いんだろうなぁ、と……。

5.当たり障りのないまとめ

なぜこういった問題が起きるのかといえば、つまるところ相手への敬意がないのではないかと思う。
相手が何かしてくれたら感謝を示すのは当然のことだと思うのだが、世の多くの人にとってはそうではないらしい。
家に帰れば手作りの料理が出てくるのは、日が沈めば月が昇るような自然現象なのだろう。
毎日繰り返される当たり前の自然現象に対して、「今日も太陽が昇ったのは神様ほとけ様のおかげでございます」と謝意を捧げるヤツはそういまい。

が、客観的事実から言えば、我々が食べている料理には必ず人為的な行為が関わっている。
あなたが自分の人生の時間と労力を使ってお金を稼いでいるのと同じように、その料理を作った人は人生の時間と労力を使って食事を用意してくれているはずだ。
ジューシーな唐揚げを噛みしめる前に、もう一度「いただきます」「ごちそうさま」という言葉の意味を噛みしめたいものである。

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