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#27 差別問題に立ちふさがる壁

◆「平等」をどう捉えるか

学生と議論したが、答えには至っていない。

その過程のみを提示しよう。

前提として、「人はみな平等」

そこに異論はなかったと受け止めた。

誰もが自分と同じく痛みを感じたり幸せを感じたりする存在だ。

ところが、実際はそれだけでは社会は機能せず、「平等」の概念には、いろいろな解釈が加えられている。

すべての人は「等質」ではない。

国家は、すべの国民に対して期待感を持ちながら教育を提供するけれど、現実には適合できない人々が一定割合で存在する。

検査などで測定して「能力のない者」とか「ある面が劣っている(欠落している)者」として画一的にレッテルを貼って切り捨てるというのは間違ってもあってはならないこと。

個別的には教育(普通教育や特別支援教育)の力によって、潜在的な可能性を最大限伸ばすことが必要だ。

私の愚息には、教師もいれば設計測量士や東大生もいる。

我が子も含め、どんな人も等しく扱われるべきかけがえのない存在だと思っている。

でも社会では、「能力別」「適材適所」という形で妥協案が提示され、何かしらの基準に基づいて選別される。

社会的に要求される能力のうち、いくつかの点で必要な水準を満たせない人がある程度の割合で存在するのは避けられないことでもある。

◆平等=等質ではないが

「平等=等質」で扱うことを主張するだけではない考え方が適用されているのが現実だ。

平等に扱うことを主張するだけではない考え方とは、社会的に要求される能力において、求められる水準を満たさないさまざまな人々がいて、その人たちには各個人の能力に合わせた対応をして、それぞれにとってそれなりに幸せに暮らせるような仕組みをつくるにはどうしたらよいか、と考えることである。

社会には、さまざまな要因によって求められることに対応・適合できない人もいる。

私は、そうした人々を差別的に扱うことを肯定しているわけではない。

人は平等なのだが、例えば、文部科学省では幼稚園から始まって小中高校、特別支援学校の教育に至るまで、理想とする目標を掲げている。

文科省の学習指導要領では、冒頭から「完全な人」「理想とされる人材」ともいうべき非常に合理的で相応の能力を持つ人を育成することが想定されている

実際の社会は、そういう人々だけで構成されているわけではない。

学習面の能力差だけではなく、運動や身体の能力差などのばらつきがある。

現実の世の中には、単に現状を肯定するのみで他者を差別する人がいる。

それは、誰もが幸福になる方向へ向かう考え方とは言えない。

現状を認識しつつ、何が望ましいかを模索しながら、それを実現するように工夫するのが知的な態度というものだ。

例えば一昨年、LGBT+Qの問題について、党派を超えて検討会議が持たれたが、法制化の検討どころか衆参議院、国会で提案審議すること自体が先送りとなった。

「人間はそれぞれがかけがえのない存在である」ということから演繹法(一般的な原理や原則などから、個別の事項や派生的な事柄を導き出す考え方)によって、あるべき姿を論じようとしているのに、教条的な考え方(状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度)という対立軸があるということだ。

「現状の差別を維持=保守」という立ち場がある。

「人間存在の素晴らしさを謳いあげる=進歩的=保守に対する左派」という立場がある。

それは単純な考え方だ。

各人にとって幸せとなるように人生選択ができるようになる社会が必要なのである。

そのために支援する仕組みがあるのもよいことだが、それとは別に、生きていく上で、建前としてのそうした「進歩的」な考え方と共に、「適合できない人もいる」という現実を踏まえた妥協案をうまく使い分けることが必要なのだろう。

そうした仕組みがうまくできれば、社会において相対的に各種能力が高くない人も差別・疎外されずにうまくやっていけるはずだ。

「そんなの理想論に過ぎない」と考える人もいるだいるだろうが、知的活動とは何かを考えれば、そこへ踏み込むのが人類の使命ではないだろうか。

◆スーパーマンに頼るだけではない社会

『五体不満足』」の乙武氏は、障害があってもこれだけのことができるということを実証してきたが、紆余曲折あって、ダメさ加減や倫理観に欠ける部分もさらけ出しバッシングも受けてきた。

パラリンピックも、障がい者の存在を世に知らしめる役割を果たしているが、世間でもそこに価値を見出したり感動を求めている人がたくさんいる。

それを示すために障害者は「スーパーマンでなければならない」という立ち位置になってしまうのは本末転倒である。

五体満足な者よりも何十倍も過酷な状況を強いられているともいえる。

身体障害者が社会参加でき可能性を示すのにスーパーマンを必要とするということは、まだまだ我々は「進歩的」な人たちを含めて、身体や発達、知的に障がいのある人の社会参加という点では、ルネッサンス期と変わらぬ考えがあるのかもしれない。

そして障がいがある人々の社会参加の問題は、彼らだけに留まる問題ではなく、社会一般に見られる能力差をどのように扱うかという一般的で根の深い問題だと思うのである。

新年度、新学期は、さらに深めて共に学ぶ。