#65 先生たちのリフレクション
■先生たちのリフレクション
千々布 敏弥 著『先生たちのリフレクション 主体的・対話的で深い学びに近づく、たった一つの習慣』/教育開発研究所
読後、考えてみた。
■信念に生き、信念にとらわれている教師たち
多くの教師が「主体的・対話的で深い学び」に苦労している。
生徒同士の「対話」が成立していない学校もある。
授業を上手く組み立てている教師もいることは間違いない。
都道府県や全国の教育研究会では、小中高校の教科・科目の指導や授業実践について素晴らしい研究発表が行われている。
多くの教師が成功例から学ぼうとしている。
私自身、若い頃は
「す、凄いな。自分もこんな授業ができる教師になりたい・・・・」と思ったことが何度あったことか。
全国の舞台で何度も発表したこともあるが、失敗事例も包み隠さず披露し、同じ悩みを抱えている先生方から共感を得たことがある。
学生たちに言っていることは、成功事例は勉強になるが、自分自身や組織(学校)として、そのやり方を再現できるかどうかにかかっている、ということ。
個人の力量だけでなく、協働性や環境、そして「仕組み」がなければ一過性の取り組みで終わる。
仕組みは、属人性に頼らなくてもできるということだ。
高校現場を離れた今、いろいろな中学校や高校を視察訪問して聞かれる声は
「結局、特定の教師(個人)が主導してしまうんですよね。
生徒同士の対話もワイワイガヤガヤやって、まとまりもなければ終着点もないんです。
人によってやり方に差ができてしまう。
うちの学校のレベルでは厳しいんです。どうすればいいのか・・・・・」
対話的な学びを阻害しているのは教師の「信念」だとの指摘がある。
信念とは次のようなこだわりだ。
どれも間違ってないのだろう。
実際のところ、対話的学びが行われる教室の中では、こうした教師の信念が肥大化し、脅迫的な行動や感情に結びつき、子どもをすべてコントロールしようとする傾向が現れやすいという。
教師は、自身が研究したことを実践的にやってみようと考える。
グループのつくり方、探究の仕方、考え方、発言・発表の仕方まで丁寧に指導する(したくなる)。
長々と話し合いの仕方を説明したうえで、
「さあ、始めましょう!」
と促すが、子どもは動かない・・・・
学校現場ではありがちなことだ。
多くの教師は大なり小なり似たようなことを経験しているはずだ。
私にとっても耳の痛い話だ。
千々布氏は次のように述べている。
権威性を強く持つ教師は、子どもに規律ある行動をさせる必要があると思っている。
そして、権威を維持するために自分の弱みを見せないようにする。
教師は無意識のうちに他者(同僚、生徒)からの批判に対して警戒心を持つようになる。
マニュアル主義に基づき、たとえば授業の進め方は教科書会社が作成した指導書を参考にすべきだと考える。
学級の規則を子どもが守ることは社会性の育成につながると考えている。
■同僚性と協働
クラスや授業で生じた問題をなるべく自分自身で解決しようとする教員が多いのは、教師としての能力が低いと思われたくないからだ。
「自己完結」(自分だけで解決する)から脱却するためには、同僚と協働することが必要になる。
リフレクション(reflection)とは「反射、反響、反映、影響、内省」である。
教師にとってのリフレクションは、自己の授業や学習指導、生徒指導を振り返り、その行動や思考を見つめ直して改善へつなげていくプロセスなのだと理解したい。
千々布氏は、教師のリフレクションとは、手法(マニュアル)ではなく「姿勢」だと述べている。
教師自身が主体的にリフレクションする姿勢が必要ということだ。
学習指導要領は大切ではあるが、そこには「理想とされる人材」ともいうべき非常に合理的で高い能力を持つ人を育成することを掲げられている。
そう、学習指導要領はミニマムスタンダード(最低限の標準・目標)だと言われながら、学校も教師もそれに縛られ、最低限にすら到達できないことに焦燥感を覚える教職生活を送ってきた教師が多いのである。
文部科学省や教育委員会はその「学習指導要領」という印籠を掲げて、すべての学校とすべての園児・児童・生徒に対して「適切な教育を施しなさい」と言っているわけである。
ははー!とひれ伏す民。
現実の学校は等質な児童・生徒で構成されているわけではない(社会全般がそうなのだが)。
実際には、学習面の能力差だけではなく、運動や身体の能力差などのばらつきがある。
個別最適な学びは、個別最適な幸せにつながらなければならない。
Wellーbeing という言葉がグローバルスタンダードとして用いられている。
文科省や中教審は約10年後の次期改訂学習指導要領では、ウェルビーイングを落とし込んで新たな目標を設定するのだろうか。