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#272 国家百年の計は教育にあり 街場の馬鹿力、アウトリーチを

「一年の計は元旦にあり」ではないが、「国家百年の計(大計=人材育成)は教育にあり」ということは、誰も異を唱えたりはしないだろう。

現在、教育に対する批判はあげればキリがないほど世にあふれている。

国民としてそこにどう関わっていくかということが大事になる。

学校教育」だけが教育ではない。
なのに、「教育」のことが話題になると、学校がダメだ、教師がダメだと公教育を担っている学校とそこで働く教師が批判に晒されている。

教師は教師で、その総元締めである文部科学省や中央教育審議会を批判する。

みんなで、上手くいかない理由や犯人を捜し、批判する。
しかし、それで国民としての責任を免れることができるわけではない。

批判・評論しているだけでは何も変わらない。

国家百年の計を実践する当事者は国民だ。
日常の中にも「教育」は存在する。

街場 ” にこそ教育がある。

街(社会)に潜在する力を活用するといえばいいだろうか。

内田 樹氏が述べているように「今ここにあるものとは違うものとつながることが教育の重要な機能」と考えるなら、それを学校教育だけに担わせるのは酷な話である。

内田氏のように「過去、学校はどの時代であれ一度として正しく機能したことなんかない」などと言うつもりはない。

『街場の教育論』内田 樹
第1講 教育論の落とし穴
第2講 教育はビジネスではない
第3講 キャンパスとメンター
第4講 「学位工場」とアクレディテーション
第5講 コミュニケーションの教育
第6講 葛藤させる人
第7講 踊れ、踊り続けよ
第8講 「いじめ」の構造
第9講 反キャリア教育論
第10講 国語教育はどうあるべきか
第11講 宗教教育は可能か

教職志願者が減少しているのも、ある意味、納得できるのだが、多くの現職教員は効果的かどうかは別として真剣勝負しているのである。

だからといって、教師以外の人は教育に関わらなくてよいという話にはならない。

家庭にも地域にも、企業にも、人が集う空間には有形・無形の教育が存在していなければならないはずだ。

マイケル・サンデル(ハーバード大学教授)が講義や講演会で述べた日本文化の優れている点は、神話に描かれている神々の姿勢や自然との共生の考え方を、神話の世界の話で終わらせることなく、その精神性を日常に落とし込んで、生活やマナー、価値観などに深く浸透させ実践してきたことにある。

私たち日本人以上に冷静に分析している。
こうした精神性や世界に誇る文化的価値は、学校教育だけで担ってきたわけではない。

街場のおじさん、おばさん、オトナ(成人した者)が、自分も教育の一端を担っているんだという意識がないと、この国の未来は、きっと、もっと不満を言う人々であふれていて、学校と教師に責任を被せて批判しているイメージしか浮かばないのである。

マイケル・サンデルのような高度な哲学じゃなくていい。
もっとも、サンデルの “ 白熱の講義 ” は大学生だけでなく市民にも十分わかりやすい問いを発し議論を進めている。

こうした取り組みが「街場の哲学」(街場のレベルの話し合い)としてあってもよいと思うのである。

全国的に小中高校の「コミュニティースクール」の実践事例は増えてはいるものの、「地域ぐるみで子どもを育てる」という動きがどこまで機能するか、今後も注目すると共に、私自身も直接関わっている地域の学校、支援している学校、お世話になった学校に対して、意見をどんどん言っていこうと考えている。