真実の愛情2
人々が住んでいるような場所は、どこでも生まれた人間として愛情を育む生活があり、日頃から心の暖かさでその日々、その日々の終わりの感覚を見つけられるといった、尊ぶ日常をおくることもある世界。
それが人間の世界である。
だけれど、相手は元より自分も納得できるようにその尊ぶ日常は人それぞれである。
愛情を論じることにあまり意味を見いだし過ぎずに、愛情をいらぬものとして感じることは人間の怠惰な生活では普通である。
愛情を推論する。それは日常で人や動物や植物の大切さを軽んじないことに繋がる。そういった行為は心の暖かさを落ち着かせることに繋がる。あるべき現象をあるがままに行ってることなので、欲張りとはいえない。ただ、あるがままに活きているのみなのである。
愛情とは何かと推論を立てた生活をおくってきた場合、心の不安に繋がる。そして愛情から発生する欲張りとはなにかと推論を自分にも似たように考えたり思ったり出来る時間を持てるのが、自分の心の余裕とは何かを思い出す時間になるでしょうし、それが無闇に欲を出しすぎず、他人の世界に入り込みすぎないことになり、他人に世界があることを知ることになる。それが出来なくてはただの欲張りな支配欲の強すぎる悪い意味での支配者である。
支配者とは支える心配りを備えた何気ない立場でいられたものがなるものである。それはそのものらが人間らしさを知っているからといった条件の上でなり立つものである。
だから考えても優しさといった価値観などの思いやりは、ほどほどにすることが人間などにふさわしいのである。
愛情未満である優しさとは、行動に移し過ぎると欲に変わりやすいので気を付けること。
優しさとは行動としては身に付けないでいずれ切る方が私の考えられる範囲では賢い人間らしい生き方である。
優しさとは愛情の初手にふさわしいのである。
それは人間の人間足らしめる愛情とは、心そのもののメカニズムを知ることの手順であり、心の中に軽はずみな愛情を求めすぎないことである。だけれど愛情は仕組みであり仕組みは愛情であるといったことを求道するのが答えである。
相手のことを考えることの優しさを知ったなら、それを半ば無意識に愛情などの心の根本、そのメカニズムとして自分を成長させる糧にすることが活きているものには必須である。
それがいずれ、他のものに迷惑を掛けない心といったものが育まれるから。
真実の愛情とは相手のことを考えて行動を変えることに他ならない。
死の恐怖の心も遺伝子から来るのだろうから、その仕組みさえ変化させられるものに私もなりたい。
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