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口臭判定員

ありがたいことに、テレビ局でお仕事があった。番組のシミュレーションだった。

シミュレーションとは、本番に出演する演者さんの代役として、番組が用意した企画に参加するものである。その企画でどのようなリアクションが生まれるか、カメラにはどのように映るか、進行は問題ないかなどを確認する。僕と相方の丸山くん(コガラシガーナ)の他に、人力舎所属1年目のまぐろ兄弟というコンビも一緒に参加させていただいた。

まぐろ兄弟は荒井(あらい)と佛円(ぶつえん)の二人組。会社員時代の同期でコンビを結成し、プロダクション人力舎の養成所であるスクールJCAに入学した。彼らは晴れて今年度からプロダクション人力舎に所属したものの、こういった状況のため「人力舎の芸人」として舞台に立ったことは未だに無いという。今回のシミュレーションが「人力舎の芸人」としての正真正銘最初の仕事になるとのことだった。

その日の夕方にテレビ局前で待ち合わせたとき、まぐろ兄弟は「おはようございます! まぐろ兄弟です! よろしくお願いします!」と礼儀正しく登場した。語気はエクスクラメーションにまみれていたが顔はマスクで隠しきれないほど青白く、やる気と緊張感がアンバランスに漏れ出ていた。僕たちは芸歴3年目らしく程よい余裕で新人を迎え入れようとしたが「まあまあ、楽しくやろうよ」と百戦錬磨の大御所のような回答をしてしまった。人間の器と芸歴と発言がまるでアンバランスだった。無論、僕たちに楽しむ余裕などなかった。二言目以降は会話が続かず、マスクの中で口をパクパクさせて時間を潰した。

企画は、2時間にわたり4人でひたすら大喜利をし続けるというものだった。ハイパー・シンプル・ストロング・スタイルのお笑いだった。終盤になると僕たち4人には妙な一体感が生まれていて、スタッフさんから「ラスト、あと1回笑いをとったら終了です!」と指令を受けると丸山くんは「やってやろうぜぇ!」と咆哮し、まぐろ兄弟は「よっしゃあ!」と応えていた。僕だけが取り残されたような気がして焦った。僕は動揺を悟られまいと、フリップで顔を隠しながら再び口をパクパクさせた。

すると突然、まぐろ兄弟の荒井が立ち上がって言った。

「ちょっと待ってください! おれ大喜利は苦手ですけど、口の臭さなら誰にも負けません!」

時が止まった。スタッフさんは何が起きたのかわからず、目を丸くしていた。僕は横目で荒井の表情を窺った。荒井の目は真剣そのものだった。もしかすると荒井は、今回のシミュレーションで爪痕を残そうと懐刀を抜いてしまったのかもしれない。芸人たるものその心構えを忘れてはいけないが、これはあくまでシミュレーションだ。番組の企画に沿った中で個性をアピールするならまだしも、企画無視による口臭自慢の抜刀は、時間厳守のテレビ局内における刀狩り令違反で即刻重罪待った無しである。

残りの3人のうち、誰かが荒井の暴走を止めなければいけない。すると、荒井の相方である佛円が立ち上がった。芸歴1年目とはいえさすがはコンビ、自分たちでこの場を収束させようとしているのだろう。後輩の急成長に安心しかけたところで佛円は言った。

「そうです! 荒井の口が一番臭いです!」

おかしなことになっている。おそらく初めてのお仕事だからコンビ揃って冷静さを失ってしまったのだろうか。懐刀の切れ味を解説しても事態は決して好転しない。これは芸歴3年目となった僕たちが先輩らしく状況を整理しなければいけない。するとコンビの以心伝心か、相方の丸山くんが勢いよく立ち上がった。

「おめえら、ふざけんなよ!」

丸山くんは咆哮した。その通り、ふざけている場合ではない。あれこれ思案する前に即行動に移せるという点は丸山くんの尊敬すべきポイントである。極度の緊張と疲労で錯乱状態の後輩を正気に戻すには、僕たち先輩は嫌われる覚悟で彼らに向き合わなければならない。丸山くんは周囲の耳目を集めたところで勢いそのままに続けた。

「おめえより、おれの方が口くせえからな!」

おかしなことになっている。丸山くんも錯乱しているのだろうか。鞘から口臭自慢の大太刀を抜いて今にも斬りかからんとしている。こうなったら最後、僕がこの場を取り仕切るしかない。僕が意を決して「あのー」と口を挟んだところで、今度はスタッフさんが威勢よく立ち上がった。スタッフさんは言った。

「じゃあ、どっちの方が口臭いのか勝負してください!」

おかしなことになっている。芸歴3年目と1年目の大喜利に2時間耐え続けたスタッフさんも錯乱状態に至ったのだろうか。取り締まるべき2人の剣士に斬り合いを提言してしまった。そしてスタッフさんは僕を指差した。

「鈴木さん! 二人の口の匂いを嗅いで、どっちの方が臭いのか決めてください!」

おかしなことになっている。僕はスタッフさんの指令により口臭判定員の役を仰せつかってしまった。一瞬逡巡したが、すぐに「わかりました!」と請負った。"NO"と言えない日本人の中で"N"とも言えないのが若手芸人である。とりわけ自分以外の全員が錯乱している空間では逆らうだけ体力の無駄、流れに身を任せてぷかぷか浮かんでいる方が賢い生存戦略だと信じたが故の承諾だった。

僕は腰を上げ、荒井と丸山くんの間に立った。そして彼らの吐息を嗅いだ。各人との距離はしっかり2メートルあけていた。こんな距離で口臭を嗅ぎ分けられるはずはないのだが、彼らの口臭は確かに僕の嗅覚に届いた。驚きの飛距離だった。それだけで2人同時優勝にしても別によかった。しかし、わずかな差異を機敏に感知して結果に反映させるのが口臭判定員の役目である。僕は請負った任務を遂行するべく、自らの嗅覚と対話した。

荒井の口臭は確かに臭かった。乾いたような匂いだった。「お前、口臭いよ」と容易に言えてしまう軽妙さを併せ持っていた。大衆的、という言葉が思い浮かんだ。言うなれば荒井の口臭は「大衆的口臭」だった。対する丸山くんの口臭も、荒井に負けず劣らずしっかり臭かった。しかしそれは荒井のものとは対照的に湿り気のある匂いだった。その場の空気を停滞させるような深い淀みがあった。荒井に反するかのように、丸山くんの口臭は「潜行的口臭」だった。この究極の頂上決戦を経て僕はどちらがより臭いのかを決めなければならない。僕は悩んだ。悩み決めかねていた脳裏に、ある諺がよぎった。

「臭い物に蓋をする」。そうだ、より「蓋をしたい」と思える方に軍配をあげればいいのだ。荒井の大衆的口臭は、気心の知れた友人同士においては話題の一つにさえなりそうなポップさがある。しかし丸山くんの潜行的口臭は決して人目に触れてはいけない、人鼻に触れてはいけない危うさがあった。太陽光が似合わない、まさに「蓋をする」べき口臭だった。そして僕は、丸山くんに軍配をあげた。これ以上「蓋をしたい」と思わせる匂いは他になかった。

「よっしゃああああ!」

丸山くんの咆哮が聞こえてきた。耳を劈くような奇声は、嗅覚ばかり研ぎ澄ませて久しく聴覚を使っていなかったことを僕に想起させた。荒井と佛円は深くうなだれていた。僕は相方の丸山くんに不可思議なリスペクトを覚えるとともに、スタッフさんの目を見て声高に言った。

「最後のお題は『口が臭すぎる、そのせいで何が起きた?』にしましょう!」

僕も錯乱していたのかも知れない。しかし大きな流れに身を任せることで、人は魚のように遠泳できる。僕は泳ぐようにペンを走らせ、挙手をした。スタッフさんがお題を読み上げ、僕は回答した。

「口が臭すぎる、そのせいで何が起きた?」

「ソ連が崩壊した」

スタッフさんが両手を挙げ、頭上に大きなマルを作った。それは2時間にわたる大喜利企画の終焉を意味していた。僕たち4人は思い思いに喜びを表現し、心の中で抱き合った。

僕たちの2時間がシミュレーションとして成功だったのかは分からない。しかし久しぶりのお仕事で得た達成感と程よい疲労感は心地よく、テレビ局を後にした僕たちは帰路なのに勇んで歩いた。人気のない夜の街で僕たちだけがいきいきとしていた。

見上げると、初夏の夜空に月が昇っていた。それは満月でもなければ三日月でもなかった。しかしそのいびつな形が、やけに愛おしく思えた。

大きくて安い水