咄嗟に声が出ない

電車が駅に着く直前、ベビーカーに乗った幼子が僕に向かって「バイバイ!」と声をかけてくれた。純粋無垢な笑顔だった。曇天を走る車両の中で、その幼子の周りだけがキラキラと輝いて見えた。僕はとても穏やかな気持ちになるのと同時に、他にも数人の乗客がいる車両の中でこの奇跡のような「バイバイ!」を受けるのは果たして僕で良かったのだろうかという身分不相応な疑念を禁じ得なかった。僕は、身に余る光栄に対してどう返事を差し上げたら良いか刹那逡巡した。そして僕が起こした返事としての行動は、とにかく目を大きく見開くというものだった。

そのとき僕はマスクをしていたため、口元の動きで返事をするのは適切でないと判断した。わざわざマスクを外して声をかけるのも衛生上避けるべきであったし、僕が大きな声で「バイバイ!」と返すのもまた適切ではない気がした。先の「バイバイ!」はクラリネットのような高くも優しい幼子特有の響きがあるからこそ車両の中に響いても誉れとなるのであって、僕の泥濘のような低い声と図体で「バイバイ!」と返したところでそれすなわちノイズなのである。26年も生き続けるとそのくらいのことは瞬時にわかるようになってくる。

そうすると必然的に、メッセージを伝えるにあたって動かすにふさわしい部位が導かれる。目だ。目を使って、先の幼子にお返事申し上げなければいけない。伝えるべき内容はいくつかある。「お声がけいただきありがとうございます」「とても美しいお声と御尊顔でございました」「僕は貴方に敵意はございません」「身に余る光栄に感謝申し上げます」「益々のご多幸をお祈り申し上げます」などなど、兎に角前向きな意思を表明することが急務であった。

そうして導き出された最適解が、目を大きく見開くことだった。これなら泥濘ノイズによる公害を発生させることもないし、何より先の幼子に前向きで楽しげな意思を送り返すことができる。瞬時に導き出されたこの最適解は、我ながら完璧と言わざるを得なかった。幼子の御尊顔がさらに明るい満面の笑みになることを想定して、僕は目を見開いたまま一秒ほど待った。しかし事態は思わぬ方向に転がった。

幼子は「え、なんで?」とでも言いたげな、不思議そうな表情を浮かべていたのだった。その表情は満面の笑みどころか、喜怒哀楽のどれでもない「疑」の顔であった。おそらくその幼子調べの統計上では、ベビーカーの上から笑顔で「バイバイ!」と声をかけた場合、100%の確率で相手も笑顔で「バイバイ!」と返してくれるものと想定されていたのであろう。

しかし僕は例外だった。言葉を発することなく、マスクの上で虚に浮かんだ両目をかっと見開くことに終始していた。その幼子にとって僕は初めて目にする存在であり、その幼子が僕を「最も人間らしくない者」として自らの柔らかな脳にインプットしたことは容易に想像できた。

目を見開いた僕と「疑」の顔をした幼子との対面は、互いに表情を変えることなく二秒ほど続いた。長い二秒だった。そのとき、電車がホームにきっちりと停車して車両のドアが開いた。すると、幼子の後ろに控えていた母親が何かを察知したようにベビーカーをぐるりと旋回させ、足早にホームへと降りて行った。母親の背中は「逃げる」とか「守る」とか、そういう類のエネルギーに満ちていた。しかし僕もその駅で降りる予定であったため、図らずもその親子を追いかけるような形でホームへと降り立ち、エスカレーターを降りて改札へと向かうことになった。

エスカレーターから改札までのわずかな道中、前を向いたベビーカーから幼子は体を乗り出して振り返り、まだ僕を見続けていた。その表情はなおも「疑」であった。僕もそれに応えるように、目を大きく見開いたまま改札へと歩いた。

先に親子が改札を抜け、それを追うように僕は改札を通ろうとした。しかしICカードでタッチしたはずの改札機は、僕の目の前で勢いよく閉じた。前を見やると、ベビーカーに乗った幼子はもうこちらを見ていなかった。母親は改札で止まった僕を横目で一瞥し、安心したように歩みを緩めた。母親の目は幼子のそれとよく似ていた。

僕が改札に引っかかったせいで、僕の後ろには団子のように二、三人の列ができていた。意図せず行列の一員となった彼らは皆、迷惑そうに僕を睨んでいた。他人に迷惑をかけずに生きることはとても難しい。改札から見えた梅雨らしい曇天が、今にも泣き出しそうであった。

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