最強のふたり と 最強でないひとたち

フランス映画「最強のふたり」のハリウッドリメイク "The Upside" を批判している上記の記事なんですが、ハリウッド版ゴースト・イン・ザ・シェルのときのホワイトウォッシュ批判と同じ構造の話なのかなと最初は思いました。草薙少佐はサイボーグなんだから、日本人である必要はなくスカーレット・ジョハンソンでも何の問題もなかったのに、公開前からアジア系女優が「アジア系の女優が演じるべき!」とぐずぐず言いだして作品の成功に水を差した。もちろんそれだけでコケたわけではありませんが、結果として、日本のマンガ原作の映画化はコケるという事例の数々の内のひとつとなり、将来のマンガ原作のハリウッド・プロジェクトを妨害。アジア系が活躍する場を自分で狭めてしまった。

”The Upside”の件でいえば、映画は感動するためにみるので、観客の興味が障害者のリアルにあるのなら、ドキュメンタリーみるなり、出掛けて行ってボランティアするなりすればいい。この記事の主張のように、障害者役に本物の障害者役をキャスティングすべき、というようなルールを優先させてしまうと、役者の選択肢が狭まって作品がベストのものにならなくなるケースが多くなる。そうなると、映画が面白くなくなる=コケるので、結果としては障害者が登場する作品自体が減るということになります。

これを建設的に変革するためにハリウッドのマイノリティは何をしてきたかというと、映画に限らず作品をプロデュースしてきたわけです。「プレシャス」(2009)、「大統領の執事の涙」(2013)を監督したリー・ダニエルズのエンタテインメント業界での最初の仕事は、黒人俳優のタレントエージェント。その前に麻薬ディーラーや看護関係の事業をやって財をなしたらしいんですが、エージェントになってみたら黒人俳優を使う作品がとても少なくて商売にならなかった。で、仕方なくてプロデュースしたり監督したりしている。アジア系の関係では、スタートレックのヒカル・スールー(カトー)役のジョージ・タケイが参加した、第二次大戦中の日系人収容所をテーマにしたミュージカル「アリージャンス」とか事例があります。仕事がなければつくればいい。

もっといえば、小人症の俳優ビーター・ディンクレイジは、「スリー・ビルボード」他の作品で、小人症でない人がキャスティングされてもおかしくない役をたくさん演じています。役が欲しければ健常者から奪えばいい。

…とここまで書いて気付きました。例えば車椅子の人に、麻薬ディーラーになって金儲けをする自由があるのか? ブロードウェイミュージカルみたいな、金がかかるのは当たり前だけど儲かる可能性は低いプロジェクトを開発するようなキャッシュをどうやって稼げというのか?

健常者が障害者にキャスティングされるのが問題なんじゃなくて、脚本に障害者として描かれていないとその役には、ほぼ自動的に健常者がキャストされる、という状況が問題なんでしょう。とはいえどうやったらそんな脚本上の健常者を障害者が演ずることが普通になるような、相互乗り入れが可能になるのか? 

ハンディキャップのある方たちを、ただの非白人、ただのマイノリティとしてひとくくりにすること自体が暴力なんですね。この記事の関連の炎上に関しては、最強とはいえないひとたちのためには、常識とか公正さとかの感覚のレベルを少しあげて考える必要があるんだろうな、というのが結論ですけれども。

#最強のふたり #映画 #障害者 #マイノリティ