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実写版『リトル・マーメイド』~ハリウッドの成熟とポリコレ迷走の煮凝り

〇細かいことを気にしないのがエンタテインメント
 実写版『リトル・マーメイド』が公開になりました。話題になったのは主人公アリエルのキャスト。
 黒人シンガーのハリー・ベイリーが選ばれたことで、アンデルセンの原作と違う! ディズニーのアニーション映画とも違う! ということで行き過ぎたポリティカル・コレクトネスの事例として反発するような意見が多く表明されました。ポリティカル・コレクトネス配慮と原作の世界観を尊重する節度と比較したら、原作の方が重要であるべき、という主張です。この手の発言、プライドが高い人の場合は、差別発言と解釈されうる発言を避けるので”アリエルは白人であるべき”と明言されなかったりする。同様に”ゼンデイヤじゃだめなのかよ?黒人NGとは思わないけど”なんてパターンもありました、とにかく腐したいんですね。まあ、今回のアリエル、大久保佳代子に似てる感じもするので、顔だけみたら確かに日本の一般的男性がイメージするようなプリンセスのキャストでないとは思います。
 ポリティカル・コレクトネスの貫徹と作品のエンタテインメント性の相性が悪いのは当然です。ディズニー映画を観るときに、お説教してもらいたくてお金を払うやつがいたら馬鹿。世の中の人は、みたこともないようなものをみて驚き、感動したいからエンタテインメント作品にお金を払う。同時に、楽しむためには野暮を言わない、細かいことは気にしないというのも一般的な態度です。
 例えばディズニー・アニメ版の『リトル・マーメイド』はハッピーエンドです。原作がそんなに有難いなら34年前のアニメ版の段階で改悪です。そこを当時の世界中の観客は大して気にしなかった。そう考えると今更、人間ですらないキャラクターが何人でも関係ない。ポイントはどんなエンタテインメントに仕上がっているかだけです。

歌で押し切る映画
 そして今回のアリエルの何か凄いかというと、歌唱力。


 上記は公開に先立ってディズニーランドで行われたイベントでのライブ映像ですが、物凄い歌声です。癖がないので白人が歌ってるみたいな風にも聞こえますが、ホイットニー・ヒューストンより上手(個人の感想です)。なんといっても歌声がこの映画の最大の魅力なので、彼女が歌い上げるシーンではボーカルの録音レベルが高めです。私はどんな映画でも音が大きめに再生される横浜ブルクで観たので、部分的にボーカル爆音上映でした。 
 人魚姫ですから、この歌声を失ってまで恋を成就させる…という話。そこの悲劇としての振れ幅を楽しむべきなんでしょう。ただ正直王子様役は、ジェネリック版ライアン・ゴスリングみたいで、そこまでの自己犠牲を払っての一目ぼれ恋愛に説得力があるかどうか?微妙ではあります。
 とはいえ、もうとにかく、歌が凄すぎて、人種・民族関係なくハリー・ベイリー以外のキャストが考えられなくなりました。仮に白人だとアマンダ・サイフリッド(『マンマ・ミーア!』『レ・ミゼラブル』)、アナ・ケンドリック(『ピッチ・パーフェクト』『トロールズ』~声優)など主役級ミュージカル女優はいるのですが、二人とも37歳。恋に恋する人魚姫(原作では15歳)は難しい。
 実はスピルバーグ版『ウエストサイド・ストーリー』の主演女優レイチェル・ゼグラーは22歳なのでハリー・ベイリーとほぼ同い年。ただ実写版『白雪姫』の白雪姫に抜擢されており両方は無理。また、1989年のアニメ版『リトル・マーメイド』はふるびた価値観のストーリーで、これを無理やりアップデートする必要があった。カリブ海のイギリス植民地的な地域が舞台なのに、白人の王子様は養子で母親の女王様は黒人…とか全般にとってつけたような設定にしてしまっています。そんな綻びだらけのお話を細かいところがどうでもよくなるように、ハリー・ベイリーの歌唱力で観客を一点突破で圧倒するような建付けで制作された映画。レイチェル・ゼグラーでは演技力はあってもそこまでの歌唱力はない。

〇北米では作戦成功 
 この歌唱力で押し切る作戦は北米では成功しました。その年の夏休み映画の一押し作品が公開されるメモリアルデーウィークエンドの三連休公開(去年は『トップガン・マーヴェリック』)で、ちゃんと1位。主人公の人種は今や北米では本当にどうでもいい要素なんでしょう。むしろ原作アニメ版の観客に黒人ファミリー層のリピート喚起が足し算される。ディズニープリンセスに黒人がキャスティングされたのは『プリンセスと魔法のキス』(アニメーション作品/2009)以来、しかもこの時のティアナは南部ニューオリンズで自分のレストランをオープンするのが夢、という普通の女の子。全然プリンセスじゃねーし。
 ということで、黒人ファミリー層の期待値が大変高かったようですから、黒人観客のリピート状況に今後は注目です。
 北米限定のマーケティング的には、ハリー・ベイリーのキャストは有効でした。作品のエンタテインメント性が高ければ主演の人種は問わないレベルまでハリウッドは成熟したのでしょう。もうひとつの要素としては、映画館で映画を観るという娯楽の市場が北米でも縮小していて、まだ映画館に通うのは比較問題としてリベラル層の比重が高いという傾向もあるのかもしれません。

〇原作の本当の意図との距離
 
普通にアンデルセンの原作と1989年版ディズニー映画と実写版の関係を考える場合はここまでですが、原作と実写映画の関係には続きがあります。ハンス・クリスチャン・アンデルセンは男性へのラブレターを残しており、相手の男性も「彼の求めに応じられなかった」と文章を残しています。
 本当の自分は水面下に止めておかなければならず、他の人間と交わる際には大変な苦痛を感じなければならず、かつ声を取り上げられて話すことができない、という人魚姫の設定は当時の同性愛者の立場そのものです。

  一方実写版『リトル・マーメイド』ではアンデルセンが物語に込めた本当の苦しみはどうなったか? 自由に歩き回りたい、と地上の憧れを水中で歌う『パート・オブ・ユア・ワールド』は世界の分断を歌っています。アンデルセンにとってはストレートとクイアの分断ですが、黒人女性というマイノリティであるハリー・ベイリーも当然訴えるものがある…はず…?
 ところが、映画全編にわたるとってつけたようなポリコレ設定のせいで、地上の島を支配する女王様が黒人女性。人種差別も奴隷貿易もなかったことにされているおとぎの国のおとぎ話になっています。アンデルセンの苦悩は吹き飛び、現在も存在する人種間・性別間の葛藤は描かれず、歌詞はそのままの意味の素朴な憧れの歌になっちゃってます。歌唱力の無駄遣い。
 最高のエンタテインメント作品の中では人種差別もなかったことに出来るという証明であると同時に、とってつけたようなポリコレ設定を煮詰めた煮凝となったせいでアンデルセンの性的マイノリティとしての切実かつ痛々しいメッセージを煮飛ばしたような映画になっちゃいました。

 ……歌だけ楽しめばいいんじゃないでしょうか。