恥ずかしいとか、自己満足とか、そんな悲しいこと言わないでよ。
「シンプルなルールを設けよう」
文章を書き始めたばかりのぼくですが、どうして文章を書くのかと問われれば、純粋に楽しいからと答えます。
僕がnoteを始めたわけは、何かを書きたかったというのはもちろんですが、それを誰かに読んでほしいという初期衝動みたいなものが生まれたからかもしれません。
小説を書いているのも同じです。最初は気軽な気持ちで始めましたが、次第に、自分の生み出したものを誰かに伝えたいと思うようになったのです。
けれど、自分が書いたものを誰かに読んでもらうことはとても勇気が要ることでした。おっかなびっくり文章を書いて、果たしてこれが評価されるものなのか。まったく自信がなくて、どこか気恥ずかしい。
そして、ぼくは言いました。
「拙い文章でお恥ずかしいです」
またある時、文章を書いていることを知人に知られたときに、
「そんな大したものは書けていないですよ。ただの自己満足です」
と目を泳がせてしどろもどろ答えました。
いったい、だれに対して、なんのための、言い訳なのでしょうか。
照れ隠し、謙遜、過大な評価を受けないための予防線。
全部、自分のためでした。
ぼくには自分の子供がいませんから、想像でしか言えませんが、自分の子供がご近所さんに褒められた時の感覚に似ているのかもしれません。
「お宅のお子さんは、本当に素直でよくできた子ですねぇ」
「いえいえ、そんなことはございません。お宅のお子さんには及びませんよ。不出来な息子でお恥ずかしいです」
けれど、文章の時は、相手は自分の生み出した子供である文章を実際に読んでくださるわけです。
自分が生んだ子(文章)は、自分一人だけのものではない。読んでくださった誰かが自分の中に取り込んで、自分の一部とするのです。
そんな文章を謙遜したら、読んでくださった誰かをも落とすことになります。そんな失礼な話ってありませんね。文章もかわいそうです。
自分の親である書き手にすら愛されなかったら、いったい誰から愛されるのでしょうか。
そう気づいてから、ぼくは一つのルールを自分に課しました。
自分の子供を精一杯好きになる。
実際に自分の本当の子供だったら、あたりまえのことです。けれど、文章になった途端それができなくなる人が多い気もするのです。
自分の文章を好きになるということは、今できる自分の精一杯をぶつけることと同義です。
だから、もう自分のための言い訳は卒業しましょう。それはとっても悲しいことだと思いますから。
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