見出し画像

短編『自転車』

「はあ、なんで俺がこんなことしなきゃならねえんだ」
「兄ちゃん、ちっちゃいコロコロはずして?」
「ああ、分かった、分かった。ちょいかしてみ」
 大悟は空太の自転車から補助輪を外すためにスパナを取り出した。
「いいか、片っぽだけだぞ」
 空太はこくんと頷き、じっと大悟の動きを見ていた。
 小さくて黄色い自転車の後輪には、補助輪が左右一つずつ取り付けられていた。
 大悟は補助輪のナットをスパナで適当にぐるぐる回してはぎとった。左の補助輪が外れた自転車を空太の前に出してやる。
 空太は恐る恐るその自転車にまたがると、空き地の中を走り出した。
 舌打ちをする。
「礼ぐらい言えよ」
 大悟はポケットに手を突っ込み、首を回した。ごきごき首の関節が音を鳴らした。
 夕焼けで空が赤と紫のグラデーションに染まっていた。
 風がない分、日が暮れてきてもまだまだ暑い。
 不快な汗を手で拭いながら、大悟はスマホを取り出した。時刻は午後六時半。
 しばらく、空太を走らせた後、
「おい、そろそろ時間だ。帰るぞ」
 ダルそうに言った。
 空太は、急いで戻ってきた。
「ね、今日は半分でできた」
「あん?」
「ほじょ、半分でできた」
「ああそうかい。俺はそんなもん無くてもできる」
「……」
「いじけんなよ」
「……うん」
 空太はこくんと頷き、自転車を押した。
 大悟はそんなことはお構いなしに、さっさと歩いていく。
 大悟はやりきれない思いがしてため息をついた。
 次の日、大悟はいつもの通り遅刻をして昼休みに登校した。
 教室に入ると談笑していた生徒たちは一斉に黙りこくった。
 大悟は気にするようなそぶりもせずに自分の席へと座り、イヤホンを耳につけた。
 そんな大悟にかかわりを持とうとするクラスメイトはいない。カナミをのぞいては。
 カナミは制服をきっちり着こなした、眼鏡で、おさげのクラス委員長だ。
「おはようございます。大悟くん」
「ああ?」
 大悟は目を閉じてお気に入りのロックを聞いていたが、いきなりイヤホンを外されて不機嫌な声をだした。
「ね、昨日見ちゃった」
 何をと思ったが、馬鹿らしくてどうせ碌な話題じゃないと決めてかかった大悟は、無視してイヤホンを再びつけた。
 すると、すぐにイヤホンを外された。
「ね、昨日見ちゃった」
「邪魔すんな」
 一応にらみを利かせてみるが、カナミはひるんだ様子もなく無邪気に言った。
「君って実は――」
 カナミが何かを言おうとした瞬間、校内放送が始まった。
――二年B組、高柳大悟、至急指導室まで来なさい。繰り返す――
「呼ばれてるよ」
「……」
「行かなきゃ」
「……」
「無視するのはよくないなー」
イヤホンを耳に再びかけた大悟は目をつぶり、聞こえないふりをした。
めんどくさいやつに絡まれたな、と、大悟は思った。
そう思った瞬間、またもイヤホンを奪われた。
「何すんだよ」
「何って、今から一緒に行くんでしょ?」
「お前には関係ないだろ」
「あるよ。クラス委員だもの」
「とにかく、俺のことは放って置きゃいいんだ」
「そうも言っていられないのよね。私の内申点に響くから」
「……現金な奴め」
 カナミは、大悟の右手を両手でがっちりつかんでいった。
「さ、呼ばれたからには行かないとね」
 大悟は延々とカナミと漫才しているよりも、指導教員の説教を聞き流している方がまだましだと思い、抵抗はしなかった。
 指導室では、生徒指導の鈴木が青筋立てて待っていた。
 カナミは、ではこれでという調子で頭を下げさっさと退散する。
「やっと来たな、お前逃げるつもりだったのによく来れたじゃないか」
指導室のパイプ椅子に、机をはさんで座った。
「なんでも知ってるんすね」
「お前の行動パターンは読める。もういい加減、こっちも言い飽きたが、遅刻はこれで何回目か分かるか?」
「何回っすかね」
「良いから言ってみろ」
「……十回くらい」
「百回だ!」
「へえ~そんなに」
 大悟は新鮮に驚いてみた。
「ふざけるのも大概にしとけ」
 鈴木はそんな大悟をにらみつけると、ため息をついた。
 大悟は話すことなどないので、黙って鈴木の出方を見ていた。いつもなら、げんこつの一つくらい飛んできそうなものだが、その日はため息をついたきり動かなかった。
「遅刻は、お前なりの反抗なのか」
 不意に言われて、大悟は戸惑った。
「はあ、どういう意味っすか」
「大人、社会への」
 大悟は心の中で笑った。
 そんなご大層なものじゃない。
 ただ、怠惰なだけだ。
「どうなんですかね」
 大悟はまたしても、鈴木をにらみつけた。
「いいか、忠告しといてやる。これ以上遅刻を繰り返すと出席日数が足りなくなる。この辺でやめておくのが得策だからな」
 大悟は返事をしなかった。
「お前、一年の頃はまじめに登校していたんだろう。何があったんだ?」
 鈴木は口調を和らげて言った。
「関係ないっすよ」
 大悟はそれっきり口を閉ざしてしまった。
 鈴木はなれた様子で立ち上がった。
「いい加減、大人になれよ。問題児」
 予鈴が鳴る。
「授業が始まるんで」
 大悟は鈴木の声を振り切るようにして指導室のドアを開けた。
 午後の授業は出席日数のためにとりあえずいるだけなので、大悟ほとんどの授業を寝て過ごした。
 大悟はホームルームをふけて、町を適当にぶらついた。土手に座り込み川の流れを眺めたり、ショッピングモールで時間をつぶしたり、特に面白くもなかった。モールを出るころには辺りはすでに日が沈んでいた。
 大悟はうっすらと空太のことが頭をよぎった。自転車の練習は空太が補助なしで走れるようになるまでやることになっていた。
 が、大悟は家に帰らなかった。
 なぜ自分が自転車の練習なんぞに時間を奪われなくてはならないのか。
 空太の顔が脳裏に蘇る。
 大悟は心の中で舌打ちをして、街灯がともり始めた住宅街を歩いた。
 ようやく家に帰ったのは午後七時半を回ったころだった。
 玄関先まで来た大悟は思わず「あ」と声を漏らした。
 玄関先には自転車の横でうずくまった空太がいた。大悟が近づいても空太は一向に動かなかった。
 大悟はしゃがみこみ、空太に顔を近づけると、すうすうと、寝息が聞こえた。
(待ちくたびれてそのまま寝ちまったのか)
 大悟は穏やかに眠る弟を背中に背負い、家へと入ろうとしたとき、空太は、
「パパ、教えて……」
 と寝言を言った。
(よりよって、パパかよ)
 大悟はきつく唇を結び玄関の扉を閉めた。

   *

 朝、昨夜遅くに帰ってきた母の分の朝ご飯を食卓にラップをして置きながら、大悟は空太に言った。
「昨日は悪かったな」
 空太は、首を勢いよく横に振った。
「待ってろよ。今日はすぐに帰ってきてやるから」
 空太は嬉しそうに笑った。
 空太を小学校へ送って、大悟はいつものようにのんびりと登校した。
 当然のように遅刻して三限目の休み時間に教室へと入った大悟は、イヤホンを取り出して耳をふさぐ。
 イヤホンを付けると落ち着くのだ。
 授業もイヤホンをしたまま受ける。
 生徒指導の鈴木に言われるまでもなく、出席日数にはもう余裕がないので、午後の授業は形だけでも出席しておかねばならない。
 珍しくホームルームまで出席した大悟が、帰ろうと席を立った時、校内放送が聞こえた。
 ――二年B組、高柳大悟、生徒指導室まで来なさい。繰り返す――
 大悟はため息をついた。二日連続で呼び出しとは珍しい。
 が、今日はすぐに、まっすぐ、帰るのだ。
 大悟が無視して帰ろうとしたとき、カナミは彼の目の前に立ちはだかった。
「どこ行く気かな?」
「委員長。帰るんだよ、もちろん」
「呼び出し聞こえていたよねえ」
「あいにく今日は忙しいもんでな」
「そうやって逃げようとしても駄目だよ。私が連れて行くんだから」
(とんだ、おせっかいな奴に目を付けられたな)
 大悟は頭をかいた。
「お前、暇なのな」
「そんなわけないじゃない。しかたなくよ。しかたなく」
「そりゃ、難儀だな。悪いけど弟が待っているもんでな」
「ちょっと待って、あなたが忙しくしているのって?」
「なんでもいいだろ」
 大悟は口を滑らせたのを後悔していた。まさか興味を示して聞いてくるとは思わなかったのだ。
「もしかして、弟さんの自転車……?」
 エスパーかよと、大悟は思った。
「だったらなんだよ」
 若干投げやりに言った大悟に、カナミは少し考えて、
「……帰った方がいいわね」
「え」
「先生にはうまいこと言っておくから」
 カナミはすぐに教室を飛び出した。
「変な女」
 大悟はひとりごちて、そのまま家へと帰った。
 日はまだ沈んではいない。
 風が時折強く吹いていた。
 玄関先では空太が大悟のおさがりの小さな黄色い自転車を手で引く格好で待っていた。
 空太は満面の笑みを浮かべて、「お帰り」と言った。
 二人はすぐに、近くの空き地まで赴き、練習を始めた。
「適当に走ってみろよ」
 空太は補助輪を左右に付けた自転車にまたがり、空き地をぐるぐるとまわった。
(パパ、か)
 空太の年齢ならもう友達との違いが分かり始めてもいいころだ。もしかしたら、友達に言われたのかもしれない。
 空太が存分に走って大悟の前まで来ると、大悟は片方の補助輪を外してやった。
 同じように空き地を走らせるが、時折危なっかしく揺れた。
「とにかくスピードにのれよ。怖がっていたら余計に危ないぞ」
 空太の顔は真剣だった。
 空太は懸命に足を動かした。あまり運動が得意ではない空太にとって補助輪なしで自転車に乗るのは大きな試練だった。それでも大悟が見ていてくれるだけで少し安心できたのだ。
「大分できるようになったな」
 大悟はスパナを取り出し、自転車の最後の補助輪を外した。
「今ならいけるんじゃないか?」
「……うん」
 再び自転車にまたがった空太は、感覚がまったく違うことに戸惑った。
 先ほどまでは補助輪が片方あったから、補助輪の方へ体重をかければ安定していたが、今は左右どちらに寄りかかることもできない。恐怖で足が固まってペダルをこぎ出すことができなかった。
「どうした? 一歩ペダルをこいでみりゃいいんだ」
 空太は体を震わせながら、右足でペダルをこいだ。けれど一回ペダルをこいだはいいが、次の左足が出なかった。勢いがなくなった自転車はふらふらと前進したあと、空太を乗せたまま派手な音を立てて倒れた。
 空太は、泣きたいのをぐっとこらえて、黄色い自転車を一人で起こした。
「だめだったか」
 大悟は空太の頭に手を置きながら言った。
「どうして駄目だった?」
「怖い」
「何が怖い?」
「一人でこぐのが」
「なら俺が支えてやる」
 大悟は自転車に目をやった。昔は自分が乗っていた自転車は、ところどころ錆びていたり、塗装が剥げたりしていた。それでも穏やかな黄色は大悟になつかしさを感じさせるに十分だった。
(そうだ、土手だ)
 大悟は、空太を連れて空き地をでて、そばに流れる川の土手に移動した。
 土手は一キロ近く川と平行に続いていた。
「ここなら、思う存分こげるぞ」
 大悟はさっそく、空太に自転車にまたがらせて、
「いいか。お前の後ろを俺が支えているから絶対に転ぶことは無い。だから、思いっきりペダルをこげ。そうすればお前は走れる」
「絶対はなさないでよ」
「行くぞ」
 大悟は空太に前を向かせた。
 空太が懸命にペダルをこぐ、一回、二回、三回と、ペダルをぐんぐんこいでいく。
 大悟は自転車の後ろの荷台を持って支えてやった。
 空太はいつしか風を切り、夕日に向かって走っていた。
 大悟はとうに手を放し、自分一人で走っている空太の後ろで一緒に走り続けていた。
「どうだ、空太。気持ちいいか?」
「うん。風になったみたい」
 大悟は少し目を潤ませながら、アハハと、笑った。
「そうだな、風になったな」

   *

 家へと帰る途中の大悟と喜びが冷めやらぬ空太を、カナミは待ち伏せていた。
「君って実は、やさしいよね」
 カナミはまっすぐに大悟を見据えて言った。
「何言ってんだ? お前」
「良いの。言いたいだけだったから」
「お前、なんで呼び出されたとき逃がしてくれたんだよ」
「そりゃあ、そっちの方が大事だと思ったからね」
「お前の内申点に響くぞ」
「そんなのでマイナスになるくらいなら、要らないわ」
 カナミは空太に微笑みかけた。
 空太はどぎまぎして大悟の影に隠れようとしたが、自転車を掴んでいてできなかったので、顔を赤くして俯いた。
「帰るんでしょ。わたしも一緒に帰ってもいい?」
 大悟は怪訝に思いながらも、一応頷いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?