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イサム・ノグチ庭園美術館の感想

  イサム・ノグチ庭園美術館に来訪、イサム・ノグチの彫刻に関する感想をうんたらかんたら


〇率直な感想


    イサム・ノグチの彫刻は一見、自然と人工の対比のように見える。しかしそのような表現は適当では無い。
    自然な石の風合いに彼が刻む痕跡は雨が岩を砕くようであり、ビーバーが木を齧るかのようである。それでいて、マグマが岩を溶かし、断層が亀裂を産むようでもある。
    つまり、彼は人工然として石を加工しているのでは無い。まるで滑り台を滑り落ちるかのように石の中にあるものを露にしている。いや、この場合石ということも適当では無い。
    彼の素材に向かう姿勢は地球そのものを相手取るような形である。石から生み出される滑らかな質は、さも地球から核を露にするように削り出されている。
   イサム・ノグチにはそこに内在する神秘を顕れとして捉えているような意識が見られる 。そのことは彫刻の様々なニュアンスに現れている。時に仄かに漂わせたり、また隙間だけ見せ内にあるものを覗かせるように仕掛けられている。 

〇大小について


     彼は龍安寺の石庭を見て、大きな石が実は小さな石であり、小さな石は実は大きな石であるように感じたことを著書で述べている。そのことを彼の彫刻を見て思い出した。彼の彫刻は物事の本質には大小の区別を超えた幻視があると指摘しているようである。
    彼の彫刻は自然と人工に対する姿勢、彫刻の佇まいから梵我一如を彷彿とさせるところがある。しかし彼の意識は全と個の同一よりも、大小の同一にあるように思う。素材である石を小として、地球を大と見るのである。
    彼の考えは彫刻と、それを取り巻く「空間」について熟考した結果生まれてきたのではないだろうか。彼は自我の超越や神秘なるものとの一体には実はそこまで興味がなく、あくまで事物を取り巻く環境・空間から世界を紐とこうとしているように思う。
    大小にしてもその定義を決める要因は物体自体ではなく、周りのものの大小など、外部の要因がその在り方を定義する。この、物体の在り方を決める外部への意識が彼を建築、公園、光というものへの興味に向かわせ、それぞれの作品を生み出していったのではないだろうか。

〇部分と全体

    人間の体として考えてみれば、地球は人体であり、石は細胞それぞれである。イサム・ノグチは細胞自体を独立した1つの生命として捉えながら、そこにある大小の概念を消す。これにより細胞は人体よりも大きな存在であるかもしれないし、人体は細胞よりも小さいかもしれないという不安定さが生まれる。これは細部が全体である可能性、逆に全体が細部である可能性をも指摘する。
     ここにある不安定さは人体と細胞の同一視を語っているにも関わらず、あくまで人体(全体)と細胞(1部)という明確な区別を前提としている。イサム・ノグチの彫刻では統合的でもありながら序列的な分断があるとする、一見矛盾した両者が「空間」という視点によってジンテーゼされているように感じる。

〇顕れについて


     空間というものは区切る必要がある。イサム・ノグチが先駆的存在となって、後世生まれたランド・アートはアース・アートとも呼ばれるように地球そのものとの繋がりを重視した方向に伸びたところがある。それに対しイサム・ノグチは同じ大地を扱うにしても庭園や公園という区切られた空間を扱う。      ではこの区切りとは一つであるか、という疑問がある。もし仮に彼の作品が本当に梵我一如を目的としているのであれば、彼の彫刻一体一体は根本的に一つであるという示し方をしなくてはならない。しかし、彼の彫刻を見るとそれらは別の個体であるという意識が感じられる。
    ではこの別々とした彫刻同士の関係はなんなのだろうか。 私は「顕れ」による別ではないかと感じた。 権現という言葉がある。これは仏教と神道を習合するにおいて、仏が神道の神という姿を借りて日本にやって来たとする概念である。要するに同じものだが顕れ方が異なっているというものだ。このように顕れ方の差異において、彫刻の別を語っているのだろうと感じた。
     ただし、権現が顕れの根本を同じとするのに対し、イサム・ノグチは寧ろ顕れ方そのもののほうが根本であると捉えているのではないか。彫刻は全体たる地球の細胞1つとしてある。それは地球と同一視出来るものだが、今目の前にあるその形は一つ一つ異なり、その異なっていることこそを本体とする。ゆえに彫刻のそれぞれは全く別の個体である。 

     道教の神には男女の区別があるが、これは本当に男女しかいないという考えでは無い。人間には男女という両極でしか神を認識出来ないという考えだ。ゆえに人間が捉えることを考え男女としている。 丁度そのように、語りえないことを語ろうとするのではなくもう少し地に足のついた現実に即して哲学性を展開しているように感じる。


ここには彼の生い立ちも関係しているのではないか。などとも考えるなど。彼は日本とアメリカの混血であり両国を行き来している。彼の人種、国籍的な区分は定義によって分かち難い。カテゴライズに依らずに世界を見ようとした時、地球は一つであるから皆同じだという暴論が目の前に現れる。それを否定することは彼の命題だったのではないだろうか。

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