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店のトイレで紙が無い。そのとき俺は……

他人ごとだと思っていた。
コメディドラマやコントでは何度か見たことがあるあのシチュエーションが、まさか自分の身に降りかかるなんて思いもしなかった。
実際にその場面に遭遇したとき、「人はこんなにも冷静さを失ってしまうのか」と愕然とした。


その日は、友人と2人で飲食店に入った。
昭和の時代からあるような昔ながらの飲食店だ。

食事を終えたとき、急に腹の調子が悪くなってきた。
水っぽいアレがすぐそこまで迫って来ている、あの痛みだ。
「ちょっとトイレ行ってくる」
俺は友人にそう伝え、店の奥まったところにある“お手洗い”というプレートが掲げられた木のドアまで向かった。

ドアを開けると、まず洗面所があり、その奥にあるもう1枚のドアを開けると便器が置かれていた。
飲食店ではよく見かける形の、男女兼用のトイレだった。

※画像はイメージです。


奥のドアの鍵を閉めてから、洋式便器に腰掛け、俺はダムを放流した。
腹痛も治まり、これで一安心だ。

尻を拭こうと思ったとき、俺はやっと気がついた。
トイレットペーパーのホルダーには、茶色い芯だけが吊るされていた。
紙が無い。

トイレでは多くの場合、便器の上部に棚があり、そこにトイレットペーパーがストックされている。
しかし、頭上を見上げてみても、棚はどこにも見当たらなかった。
ならば、トイレの四隅や便器の裏なんかにストックが積まれているはずと期待したが、それも無い。


終わった。

いや、始まってしまった。
コメディドラマやコントでは何度か見たことのある“紙が無いトイレで主人公がどうやって危機を乗り越えるのか”を楽しむシーンが、俺の主演で始まってしまった。


落ち着け。
どうにかトイレットペーパーを手に入れなければ。

トイレ内に紙が無いとすれば、この店はどこにトイレットペーパーを保管しているんだ。
そうだ、さっき通った洗面台の下に棚があった。きっとあそこだ。
トイレの鍵を開けて中腰の状態で腕を伸ばせば、洗面台の下の棚に手が届くはず。

いや、ダメだ。
洗面所と店内を仕切るドアには鍵が付いていない。
俺が汚れた尻を丸出しにしながら中腰で洗面台の下を漁っている間に、他の客が洗面所に入って来たらどうする。
そんな無様な姿を誰かに見られる事態はなんとしても避けたい。

声を出して店員を呼ぶか。
いいや、ただでさえこのトイレは店内の奥まったところにあるし、洗面所越しに2枚のドアを挟んでいる以上、相当な大声でないと店員の耳には届かないだろう。きっと店内にいる他の客にも聞かれてしまう。
そんな失態はまっぴらごめんだ。

そうか、店内で待っている友人をスマホで呼び出せばいいのか!
おそらくこれが、この状況における最もスマートな解決策だ。

iPhoneを店のテーブルの上に置いて来たことに気づいた。
なんでなんだ。
iPhone 3GSから10年以上もiPhoneを使ってきたのに、今が一番必要なそのときなのに、なんで今この瞬間に限って手元に無いんだ。おお、ジョブズよ。
俺は神に見放された。紙にも。言うてる場合じゃない。

俺の前に紙を使い切った人が新品に取り替えていてくれれば、こんなことにはならなかったのに。
そもそも店員がトイレ内に充分なストックを用意してくれていれば。
絶望だ。

そんなとき、ふと目に入るものがあった。


サニタリーボックスだ。

「まさか。いや、やめろ!」という社会の声が聞こえて来るようだ。

確かに、今考えてみれば、不特定多数の人が使う男女兼用のトイレに置かれているサニタリーボックスは、中にどんなものが入っているかわかったもんじゃない。
それに、洗面所に誰か入って来てくれるのをしばらく待ってみるなど、後になってみれば他にも対策はいくらでも考えられる。

しかし、この時の俺は、閉じ込められた狭いトイレからどうにか一刻も早くきれいな尻で脱出できないかと、完全に冷静さを失って、文字通りサニタリーボックスにもすがる想いだったのだ。


俺は恐る恐る開けてみた。
サニタリーボックスという名のパンドラの箱を。


中には、1枚のウェットティッシュだけが入っていた。

まさか。
俺が今まさに地球上で最も求めているもの「紙」が入っているなんて。
まるでドラクエの宝箱だ。
おお、神よ。
俺はカミに感謝した。ダブルミーニングで。

手に取ってみると、特に汚れた様子は無く、しっとりと湿っていた。
まだ新しい。

しかも、この香り。この手触り。
知っている。俺はこのウェットティッシュに覚えがある。

メンズビオレだ。メンズビオレのボディーシートだ。
体育の後の着替えで、ちょっとマセてる陽キャな運動部の奴らが汗を拭くのに使っていた、あれだ。
きっと、俺の前にこのトイレを使っていた男子が、このシートで自分の体を拭いたのだ。
もちろん、どこを拭いたかまではわからない。
普通に考えて、顔や首筋。最悪を考えても、腋だろう。

本当にそうだろうか。
他の用途に使われた可能性は無いか。
もしや、座る前に便座を拭くのに使ったとも考えられる。
念のため広げて見てみたが、なにか色が付いた様子は無く、使った後とはいえ真っ白で清潔に思えた。
そもそもボディーシートを持ってトイレに入って来たのだから、体を拭くという目的はこの場所で達成されたはずだ。
仮に便座を拭くのにも使われていたとしたら、ボディシートは2枚捨てられていないと辻褄が合わない。
先に体を拭いた後のついでに同じボディシートで便座も拭いたかもしれないけれど……。

いやいや、どんな可能性があれど、今の俺がこの世界で頼れるものは、目の前のボディシートこの1枚だけなのだ。
想像しろ。
このトイレで、清潔感の漂うイケメンが、ボディシートで自分の体を拭っているところを。
最悪、腋を。できれば、顔を。
メンズビオレのCMに出ているのは誰だ。
菅田将暉だ。
これは菅田将暉が使ったものだ。ハライチ澤部の方では無くて。
菅田将暉が顔を拭くのに使ったボディシートであれ。



俺は、そのボディシートで自分の尻を拭いた。

それはそれは清々しかった。
メントールの風が俺の尻を撫でていった。
なんなら普通のトイレットペーパーで拭いたときよりもきれいになった尻に、やっとパンツとデニムを穿かせることができた。
ボディシートはトイレに流せないため、今度こそサニタリーボックスの中に封印した。
2回にわたって使い古された特級呪物が、二度と人の手に渡らぬよう。


まるで何時間も閉じ込められていた気分だった。
狭く息苦しいトイレからやっと解放され、洗面台で手を洗い、ふと正面の鏡に映った自分の顔を見た。




俺は、マスクを着けていた。
白い不織布で作られた、充分な面積のある使い捨てマスクだ。

これじゃん。これだったじゃん。
尻を拭くなら、誰がどう使ったかもわからないボディシートより、自分が着けてるマスクだったじゃん。
100パーそうじゃん。

我々は、未曾有のウイルスに生活のあらゆる自粛を強いられ、息苦しい毎日を数年にわたって耐え忍んできた。
しかし、その代償として得られたひとつの生きる術を、俺は世界中の人々に伝えたい。

尻はマスクで拭ける』

トイレで紙が無かったとき、まずは真っ先にこれを思い出してほしい。


俺は店員に声をかけた。
「今トイレの紙を使い切っちゃったので、次の人のために補充してもらえますか?」
店内には、さっき俺がトイレに入るまでと変わらぬ平和な時間が流れていた。

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