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嘉月 【 tulip yellow 】

「嘉納(かのう)先輩! ご卒業おめでとうございます!」
 制服の胸に赤いコサージュを付けた桜彩(さあや)は背後から真っすぐ突き刺さすような声に驚いて振り返ると、そこには後輩の夏弥(なつや)が一輪のチューリップを持って立っていた。しんと静まり返った廊下と、大きく響く彼の声は相性が良かったみたいで、普段の三倍以上は声のボリュームがあった気がする。
「これ、どうぞ」
 右手にぷらぷらと揺らすように持っていた一輪の花を夏弥が桜彩に向かって差し出す。左手には、一輪ずつ包装されているチューリップがビニール袋の中にきゅうっとまとめて入っていた。突然の事に言葉を失っていた桜彩との距離をあっという間に詰めた夏弥は、既にすぐ目の前まで迫っている。おずおずと手を伸ばして、桜彩はチューリップを受け取った。
 せっかくの卒業式だというのに、今日はあいにくの雨だった。その証拠に近くで見た夏弥の学ランの肩には水滴が弾けてキラキラと光っている。そして気温も高く、じめじめと嫌に湿気が纏わり付くような日だったのに、目の前に立つ彼は晴れやかに笑っていた。
「ありがとう、伊藤くん」
 受け取ったチューリップに視線を落として、桜彩はお礼の言葉を口にした。それを聞いた夏弥は更に笑みを深める。
「いえ! その花、俺らの学年皆からの感謝の気持ちっス!」
 桜彩は陸上部のマネージャーをしていた。中学生の頃は走り高跳びの選手をしていて、高校生になってからも暫くは競技する側だった。踏み込んで、背中でバーを超える。その時に視界に飛び込んでくる景色はスローモーションで見えて、まるで空を飛んでいるかのように錯覚する。それが本当に、大好きだった。でも高校二年生の夏に怪我をして、いとも呆気なくマネージャーになった。もう空を飛ぶ体験も出来なくなった。
「花を買おうって提案するような男の子がいると思わなかった」
 卒業生に贈り物をするのは陸上部の伝統行事。一個下の部員たちが、卒業する先輩たちへの贈り物の品を決めて、部員全員でお金を出し合う。いつもやんちゃして騒いでいるイメージが強かった一個下の後輩たち。その中に女子部員は居なかったから、贈り物は良くてもお菓子の詰め合わせとか、最悪雑貨屋に売っている様なふざけた物になると思っていた。
「アツですよ。あいつ姉ちゃんいるじゃないですか。アドバイス貰ったみたいで」
「遠藤くんか。納得」
 何度か大会を見に来ていた遠藤の双子のお姉さんらしき人物を頭に浮かべる。あまり騒ぐようなタイプではなく、色白で太陽の下にいるのが窮屈そうだった。一卵性の双子だと聞いていたけれど、あまり顔が似ていないな、と感じたのを思い出した。目の前で「でしょ」と得意げに笑う夏弥を見て、桜彩は思い出したように空き教室の時計を覗き込んだ。
「てか、伊藤くん来るの早くない?」
「今日の集合時間13時10分ですよね? 俺、とくに今日は幹事だし、15分前行動を心掛けてるんスよ」
「え?」
「え?」
 桜彩は制服のポケットからスマートフォンを取り出して、送ったはずのメッセージを確認して、夏弥に向けて頭を下げる。
「ごめん! 13時30分から!」
 桜彩の頭の上から「え」と驚いた声が聞こえる。他の後輩たちに送ったメッセージも確認してから、顔を青くして再び夏弥に向って頭を深々と下げた。
「しかも伊藤くんにだけ間違えて送っていました。本当に申し訳ない」
 今は12時50分になろうとしているところ。つまり、あと40分間は待たなくてはならないのだ。卒業式が終わってすぐに送別会を始めてしまうと、部活以外の友達との別れが御座なりになってしまうため、頃合いを見て開始時間を送る約束をしていて、その役目に立候補したのは桜彩のほうだったのに。
「嘉納先輩。大丈夫ですよ」
 頭を上げてください。少し焦ったような声色で夏弥は桜彩に声を掛ける。
「むしろ、嘉納先輩がいてくれたから良かったっす! 誰も居なかったら流石に哀しかったですけど」
 はにかむ様に無邪気に笑う夏弥を見て、桜彩は胸をなでおろした。それから桜彩と夏弥はとりあえず送別会で使う教室に移動する。気を遣ってなのか、夏弥とはどこまでも話が弾んで、話題が途切れることは無かった。他愛もないことだけれど、兎に角たくさん笑っていたら、あっという間に送別会開始の時間まで迫っていた。
 
 13時20分になる頃には続々と卒業生と現役部員たちが集まってくる。夏弥は多目的室の入り口付近に待機して、入ってくる部員に紙コップを渡すと、席の中央に用意した飲み物を各自ついで、自分の席に着くように案内した。
 夏弥が持っていたチューリップは桜彩と一緒に、卒業生たちが座る席に一輪ずつ並べて置いた。その隣には、桜彩が予想していた通りのお菓子の詰め合わせが並べてある。紙で作った三角柱の名札には、それぞれ部員の名前がフルネームで記載されていた。
 桜彩は「どうせ皆すぐに席移動しちゃいそうだけど」と申し訳なさそうに告げたが、夏弥は「それでもいいんです」と笑った。最初と最後に間違いなく座って、席に用意しておいたプレゼントが確実に一人ずつの手元に渡れば良いのだと頷く。
 送別会を学校で行いたい場合は、生徒会に申請する。学校で行う部活が多ければ抽選で教室を決める事になり、陸上部の送別会にあてがわれた教室は多目的室の一つで、天井から吊るされているロールスクリーンと、同じように天井からぶら下がっている古いプロジェクターがあった。今の授業ではここに設置されているスクリーンを使うことは滅多にないが、昔はプロジェクターを写したりする授業の時には必ずここの教室まで移動していたらしい。桜彩が入学する二年前には、どこの教室も壁を綺麗に舗装したらしい。したがって授業で必要なときは小型プロジェクターのみ教材室から運んで来れば各教室で投影出来るようになっている。
 当然、送別会のためだけにプロジェクターを借りることは出来ない。そもそも全ての部活動で貸出要請があった場合に数が足りない。つまりプロジェクターとスクリーンが使える教室に当たるのは、とてもラッキーなことだと陸上部全員で盛り上がった。夏弥は元部長に頼んで、卒業していく先輩たちの写真や動画をたくさん集めて編集し、思い出の動画を流すつもりでいる。ちなみに、顧問の先生からはプロジェクターは使うなと言われているが、きっと今日という日なら大目に見てくれるはずだと、言わずもがな皆思っていた。
「そろそろ全員集まったか?」
 そう声を上げたのは、元部長だった。夏弥は教室の中をぐるりと見渡して、全員が席についている事を確認した。ちなみに、現部長は夏弥だ。
「はい。そろそろ始めます!」
 元部長とのやりとりが周りに浸透して、教室内のざわめきが消える。夏弥は「注目!」と声を上げて、紙コップを手に取って立ち上がった。
「陸上部の送迎会を始めます! 先輩方、ご卒業おめでとうございます!」
 夏弥が手に持った紙コップを高らかに掲げる。その声に続いて、部員たちが声をそろえて「おめでとうございます!」とやまびこしてくれた。
「乾杯!」
「「「乾杯!」」」
 それを合図に陸上部の送迎会が始まった。
 
 乾杯の音頭のあと、まずは皆で机の上に目いっぱい敷き詰められた軽食へと手を伸ばす。そしてあちこちで談笑が始まる。桜彩が予想した通り、席に座っていたのは「乾杯」と声が上がるまでで、今はもう皆しっちゃかめっちゃか歩き回っている。
 サンドイッチや、唐揚げ、ポテト。お菓子は甘いのもしょっぱいのも両方。抜かりなく下準備されている。慣れ親しんだ人間のみが集まって、がやがやと五月蠅くても、とても居心地のいい空間。最後の愉しい時間。改めてそう思うと桜彩の目頭がじんと熱くなる。気を取り直すように周りを見渡すと、競技の種目ごとに人の輪が出来ている気がした。マネージャーである桜彩はどこの輪にも入れるが、元部長と同じ輪を選んで足を進めると、そこには夏弥と遠藤篤樹もいた。
 
 
 桜彩が怪我をした日の空は、どんよりと分厚い雲が隙間なく敷き詰められていた。天を仰いで「今日の空は飛んでもあんまり気持ちよくなさそうだな」と思ったのが間違いだった。そんな風に思ってしまったから、神様は怒って自分のことを見放して、罰として怪我を与えたのではないか。ほんの少しだけれど、飛んでいるときは他人よりも空と近い距離に居れる事で、空にいる神様に近づいた気持ちでいた。他人より少しだけ飛べることがあんなに幸せだったなんて。飛べなくなって気付くことになった。
 その日、桜彩は自己新記録を更新した。しとしとと降り始めた雨で調子が狂ったのか、踏み込んだ足には激痛が走る。綺麗にクリアランス出来たのは、その日のその一度だけだった。そして、この日の記録が桜彩の最後の記録となった。
 次の日から怪我を理由に部活を一週間休み、二週間休み。もちろんその間に自主トレは行っていたが、空が自分から遠くなる。全然超えられない。記録がどんどん悪くなっていく。どうしようもない苛立ちをよそに、足にはじくじくと痛みが残った。
 学校へ行くと、部活を休み続ける桜彩を心配した陸部の同級生が怪我の具合はどうなのかと代わる代わる訪ねてきた。正直、桜彩はまだ飛ぶことを諦めていなかったし、全然飛べてない事も皆には知られたくなかった。
「リハビリがてら、軽くなら運動してもいいって言われたよ」
 とんでもない嘘が自分の口から飛び出て、唇の端が引きつっている事に気付かれないように笑った。
 勉強に苦手意識は無かったけれど、かといって得意でもなかった。しかし、この日はどうにかして授業を終わらせないように出来ないか、はたまた、断れないような用事を先生に言いつけられないか期待して過ごした。
 頭の中では「どうしよう」と駆け巡っているのに、放課後になり、桜彩は既にTシャツとジャージに着替えている。もう逃げられない。流石に皆と一緒に本気のアップは出来ないと断り、一人外れてランニング・ドリルを行う。皆の視線が集まっていないことを確認してから、どこまで無理をしたら足の痛みが起こるのか念入りに確かめようとして、愕然とする。もも上げから痛いのだ。そして、片足立ちのバランスも上手く取れていない気がする。
「足、痛むっすか?」
 ふいに後ろから声を掛けられて、桜彩の肩はびくりと跳ね上がった。口元を真一文字に引き締めて即座に振り向くと、そこに立っていたのは夏弥だった。
「あー、うん。久々の部活だし。緊張で冷えているのかな」
 曖昧に笑って流そうと、慎重に言葉を選んでいく。
「アップ終わったら、俺、リハビリ付き合います」
「いやいや。大丈夫だよ」
「俺ここ一週間ずっとケツワレ痛くて、途中で適当に抜けて針行かせてもらうので」
「伊藤くんの方が大丈夫?」
 苦笑いしながら、「大丈夫っす」と言う夏弥を見て、桜彩はむしろ好都合化もしれないと思って賭けに出る。
「実は結構、足が痛くてさ。ノリで部活に来ちゃったけど、まだ多分出来ないと思う。あんまり皆に見られたくないから、手伝ってもらおうかな」
「え、じゃあ俺が部長にテキトーに言ってきますね」
 待っていてください。と言い切る前に、夏弥は部長に向って走り出していた。まだ入部して2、3か月なのに先輩達に全く物怖じしていない背中を見て、桜彩は何だか情けない気持ちになった。自分は同級生にすら、今の状況を伝えられなくて取り繕おうと必死で、プライドだって捨てきれず、夏弥を利用した。部長と話し終えた夏弥が「嘉納先輩!」と手を挙げながら戻ってくる。
「行きましょう」
 てっきりグラウンドの隅っこでやるものだと思っていたけれど、夏弥は桜彩の横を通り抜けて行った。
「行きましょうって、どこに?」
「トレーニングルームですよ。物置にでっかいマットありましたよね」
「あるけど」
 最近の自主トレの相棒だ。顧問に許可を取って使用していた。元から雨の日にはそのクッションを引っ張り出して空中動作の練習をしていた。そして、終わりの方には、だらけた部員たちの布団となる。
「中でやる許可を取ってきました。俺一人だったら駄目だって言われましたけど、嘉納先輩も行くって言ったら、あっさり許可されました」
 入部したばかりだし、全然信頼されていませんよね。と夏弥は歯を見せておどけてみせた。
 
 トレーニングルームの扉を開けると、今日は誰も居なかった。これはついているな、と桜彩は内心ほっと胸をなでおろして、何からしようかと思考を巡らせる。
「俺、ドアの側でラダーやります。嘉納先輩、適当に座っていて大丈夫ですよ」
「いやいや。流石にちょっとはやろうかと」
「無理しない方が良いですし、俺びっくりしたんです」
「何が?」
「部活で初めて見た時に嘉納先輩のクリアランスがすげぇ綺麗で。高校生になるとレベルが違うなぁって純粋に思いました」
 予想をしていなかった後輩からの誉め言葉に、桜彩は少し照れて夏弥から視線を外す。
「でも違った。嘉納先輩が特別に綺麗だったんだってことに春の大会で思い知りました」
「べた褒めで照れるなぁ」
 ただ嬉しくて、心の内が踊り出すように桜彩は顔がニヤける。同級生に言われたら謙遜して、調子に乗っていないように見せなきゃと気張るのに、夏弥の言葉は心の真ん中で受け止めることが出来た。
 
 

 
 
「20分後に動画の投影始めまーす!」
 メガホンを通した夏弥の声が教室全体に行きわたって、あちこちで歓声が上がる。
 桜彩は手に持っていた紙コップが空になって、飲み物を取りに行ったら先客がいた。
「遠藤くん」
「嘉納先輩。何飲みますか? 注ぎますよ」
「じゃあ、サイダーで。ありがとう」
 紙コップを渡してすぐに、プシッとくぐもったような炭酸の弾ける音が鳴ったのが聞こえた。桜彩の一個下の遠藤篤樹は今の陸上部の副部長。入部してからずっと夏弥とは仲良くしていたように見える。
「遠藤くん。贈り物のお花、いい案だね。私らの代は女子多かったし」
「花ですか」
 いまいち話を捉え切れていないような、不思議そうな顔をしている。篤樹は右手に持っていた紙コップを桜彩へ「どうぞ」と差し出したので、改めてお礼を告げた後に受け取ってそれを一口、口に含んだ。机の上に出しっぱなしにしてあったサイダーは、温くなっていて妙に口の中に甘さが残った。
「遠藤くんの双子の、あの子に相談したんだって? 女の子が家族にいると頼もしいね」
「それ、誰が言ってましたか?」
「伊藤くんが鼻高々に教えてくれたよ」
 そう伝えたら、目の前の篤樹は苦虫を噛み潰したような、嫌そうで、何か言いたげな表情をしていた。思わず桜彩は「え、何かごめん」と謝罪を口にしていた。
「いえ、すんません。あの花は、ナツが提案してきて。全然、俺じゃないっす」
 目を逸らしながら淡々と篤樹が告げる。温度がわからないような表情をしている篤樹の後ろで、元部長と夏弥が何やら相談している姿が目に入った。「篤樹、ちょっとこっち」と二人が呼んでいる。篤樹は桜彩にぺこりと会釈してから、背中を向けて行ってしまった。
 
 動画が始まるまで、桜彩は同級生の女子四人組の輪に入ることにした。毎度のことだけれど、このグループは話をするたびに恋バナしかしていない気がする。
「桜彩って、この三年間で彼氏できたことあったっけ?」
 小馬鹿にするような声のトーンにうんざりする。
「ない。好きな人も・・・出来てないわ」
 相手のテンポに合わせるようにおどけて見せると、四人は口々に「それはやばい」「キュンがないままJKは終われない」と桜彩を欠陥品のように扱い始める。
 
 
夏弥にクリアランスのフォームを褒められた日、あの日のことは思い出したくもないのに、陸上部に所属し続けた限り、思い出さなくて済んだ日はなかった。
暫くトレーニングをしながら夏弥と談笑した後、彼は部活を早退していった。それと入れ違うように、この女子四人組がトレーニングルームに現れたのだ。
「ねぇ、外で一緒にやろう?」
 そうやって声を掛けてくれたのはありがたかった。仕方なく休んでいるだけなのだれけど、疎外感というか、仲間に入っていってはいけないような気がしていたから。でも、もう少しだけ放っておいてくれれば、飛べないことを隠したままでいられたのに。
「みんなぁ、桜彩、飛ぶってぇ」
 一人がグラウンドに向けて大きな声を出した。桜彩は後ろから必死に止めたけれど、すでにみんなは盛り上がっている。
「ごめん。本当にまだ足が痛いから、本気は無理だって」
 しかし訴えは届かないまま、ぐいぐいと背中を押されてスタートラインに立たされる。遠目から見ても、絶対に飛べないと分かる基礎の高さ。
 この子たちを恨んではいない。ただ、皆が見る中で、ウォーミングアップに使うような高さすら、飛べなかった自分が恥ずかしくて。惨めで。
 体当たりをするようにバーを落としてしまった姿を、夏弥に見られていなくてよかったと思った。せっかく褒めてくれたのだから、綺麗なフォームの自分を覚えておいてほしかった。
 それから一週間、桜彩はまた部活を休んだ。休んでいる間は毎日、ずっと考えていた。夜も眠れないほど考えてから、選手を止めてマネージャーになりたいと当時の部長に告げた。色んな人から止められた。でも、もう自分の心は折れてしまったのだ。
 先輩も、後輩も、同級生も。みんな勿体ないと言っていた。その中で夏弥だけが特別だった。本当に悲しそうな顔をしてから、「これからもよろしくお願いします」と笑った。
 
「投影始めます!」
 夏弥はそう呼びかけると、一度大きく盛り上がってから教室はしんと静まり返る。ポツポツと窓を濡らす雨の音が桜彩の耳に届いた。
 動画はモノクロで3、2、1、とカウントダウンしてから始まる。引きの場所から、一人の選手を写している。その奥に映る空は、とても青かった。その選手はユニフォームを着て、足首を回したり、腕ストレッチを行っている感じだ。「感じだ」と、曖昧なのは、全体にモヤのようなモザイクを施しているため、誰なのかは定かでないからだ。ただ、女性のである気がする。それよりこれって、もしかして。桜彩の心臓が震える。
 写されている人が走る。見覚えのある走り方。助走から軌道に乗った瞬間に、モノクロからカラーに変わり、ぱっとモザイクが取れた。夏弥から褒めてもらった見事なクリアランスで空を飛んだ瞬間で映像は止まり、トビウオのような美しい姿に「陸上部38期 ご卒業おめでとうございます」と文字が重ねられていた。教室内はどよめく。「嘉納先輩」「桜彩だ」「懐かしい」「え、いつのだろう」口々に感想が聞こえてきたけれど、動画はそこで止まることなく、どんどんど流れていく。「若い」「可愛い」などと後輩たちは口にしながら笑い合っている。
 桜彩は半ば放心状態でぼんやりと動画を眺めた。久しぶりに見た、自分の飛んでいる姿。高校に入ってから、あんなに青い空を飛んだことがあっただろうか。見事な晴天の日のジャンプは忘れるはずがないと思っていたのに。
 動画の上映が終わり、教室が盛大な拍手に包まれて、どんっと桜彩の背中に衝撃が走る。
「桜彩! 桜彩! 久々に見た! ね!」
 興奮気味に同級生が桜彩の周りを取り囲むと、その奥から夏弥が近づいてきた。
「サプライズというか、一年は嘉納先輩が飛んでるのを知らないかもって思いまして。あんなに綺麗なのに、見せておかないとって思って」
 勝手に見せびらかして、怒っていないだろうかと少し気まずそうにしている。
「びっくりした。けど、あれ、いつの?」
「嘉納先輩が怪我をした日の大会の記録映像です」
「嘘。あんなに晴れてなかった」
 どんよりとした曇天を見上げて、肩を落とした出来事は昨日のことのように思い出せる。
「すいません。あの、加工しました」
 気まずそうに夏弥は視線を落として、言葉を続ける。
「青空の方が似合っていると思って、すいません」
「伊藤くん、私、怒ってないよ。だから謝らないで」
 どこまでも続いているような青空の下で、もう一度だけでも飛びたいと何度も思っていた。つまらないプライドを取り払うことが出来なくて、簡単に飛ぶことを止めてしまった事をずっと後悔していた。
「むしろ、ありがとう。最後に見た空は本当に曇ってて。やっぱり青空が一番好きだなってずっと思ってた」
 どうしてだろう。何故だかいつも、夏弥の前では素のままでいられる気がする。桜彩がお礼を伝えると、そのままの言葉の意味で受け取ってくれた夏弥が笑う。その様子を見て満足した桜彩は、じゃあと片手を上げてその場を離れた。
 もう送別会も間もなく終わる。皆もそれを意識し始めたのか、卒業生は一つの大きい輪を作って、一秒一秒を無駄にしないように語らいだ。
 先輩から後輩へ、感謝の言葉を贈る。その役目は言わずもがな元部長が引き受けてくれた。桜彩はこの時に絶対に泣くだろうなと思っていたが、予想に反して、全く涙は滲んでこなかった。胸がスッキリして、いつまでもドキドキしたまま、身体がとても軽い。
 後輩から卒業する先輩へ、激励の言葉を贈る。これも言わずもがな、現部長の夏弥の役目だった。夏弥は涙でくしゃぐしゃで、上手く原稿を読むことが出来なかった。そんな様子を見て、桜彩はくすっと笑って、送別会はお開きになった。
 
 桜彩は、一人で雨音を聞きながら見慣れた廊下を歩いていく。この廊下を歩くのも今日で最後なんだと思うと、胸に込み上げてくるものがあった。
 送別会が終わって、片付けは後輩たちがやることになっていたので、桜彩たちは近くの教室に移り、暫くは卒業生みんなで語らいだままでいたけれど、クラスの打ち上げがある人が殆どだったので早々と解散する流れになった。桜彩は適当な理由を付けて一人になると、ある程度時間を潰すために校舎の中をぶらぶらと散策した。
 中庭を見下ろしながら廊下を歩いていたが、窓は結露している。なかなか止まない雨に思わず溜め息が出て、その呼吸は緊張で震えていた。
 階段のほうから、男性の話し声が聞こえる。
「お前、何であいつに相談したの?」
「えー」
「マジで適当に誤魔化すなよ」
「いや、流れで? 相談したら何が駄目だったの?」
「駄目って言うかさ」
「ってか、アツ、何で怒ってんの?」
 喧嘩っぽい雰囲気に加えて、聞き覚えがある名前が出て、桜彩は目についた教室の中に静かに逃げ込む。顔は見てないけれど、夏弥と篤樹の言い争いな気がした。
「ナツさあ、あいつの事、好きなの?」
 嫌そうな声がすぐ傍で聞こえて、桜彩は置物のように固まる。すぐ後ろを通過しているのだろうか。夏弥は「あはは」と笑い飛ばしていて、妙に胸が騒いだ。声だけしか聞こえないからか、夏弥の笑い声に含みがあるように感じる。
「アツに関係ある?」
 いつもの声の調子で喋っているはずなのに、どこか一歩引いて、拒絶しているようにも聞こえた。
「関係あるだろ!」
 いつも飄々として、他人に無関心そうな篤樹が声を荒げたことに桜彩はびくりと震えた。足音と共に言い争いを続ける声が桜彩から遠ざかっていく。見つからなかったことにホッと息を吐いた。
 桜彩は手に持っていた黄色のチューリップの存在を思い出す。これを手渡してくれた時の夏弥の笑顔も一緒に思い出された。そう言えば。
「あんなに堂々とした声で、嘘つくんだな」
 独り言のように呟いて、桜彩は雨が当たる窓の方へと近づいた。久しぶりに競技をしている自分を見て、ちょっと浮かれていた。夏弥に褒められて、見失っていた。きっと、篤樹の話が本当なのだろう。卒業生に花を贈るって決めたのは夏弥で、篤樹には相談しなかった。しかし、夏弥は「篤樹が姉に相談してアドバイスを貰った」と言った。きっと、夏弥が篤樹に内緒で、篤樹の姉に相談したんだろう。
「あんなに笑顔で、嘘つきだな」
 自分自身を納得させるように、桜彩は独り言ちて結露している窓に指先を伸ばす。白く曇る窓に適当に線を書いて、その指を止める。迷いながら、一画ずつ丁寧に「スキ」と書いた。
 多目的室に戻ったら、告白するつもりだった。何となく、夏弥は名残惜しそうに教室に残っていると思っていたから。真っ直ぐで、嘘の吐けなさそうなところが可愛くて、好きだったのに。
「私が見ていた伊藤くんなんて、たったの一部に過ぎなかったのに」
 窓に書いたスキの文字をぼんやりと見つめていると、そのスキの端っこから、だらりと水滴が流れて、あっという間に崩れていった。
 
 
 
 
チューリップ花言葉 : 『正直』 『望みのない恋』 『高慢』
 ※ 色によって花言葉違うみたいですね!
 
 
 
嘉月 【 tulip yellow 】

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