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牛と暮らした日々-離農するという事#50 あとがき(後編)

2022年5月。
Kさんがやって来た。

後継者(研修生)が来ると、こんなに楽になるんだ。
体が楽になるのと同時に精神状態も楽になった。
目指す方向が一緒で話が合う。例えば、酪農は放牧を主体に経営するとか、春分娩を目指すとか、ニュージーランドの種牛を使うとか、価値観が一緒で話していて楽しかった。

酪農に夢がある前向きな若者と一緒に仕事をしたり教えたりするのも楽しかった。うちの息子たちだと嫌々手伝っていたので教えるのも苦痛だったが、Kさんは自分が経営者になるので熱心さが全然違った。

私は酪農の研修を指導された経験がなかったので、指導をする立場になっても何も分からなかったけれど、分からないなりに気を付けていた点が2点ある。

1つは、ミスをしても声を荒げて怒らない(精神的安全を担保する)という事。そしてもう1つは、他人としての距離感をちゃんと保つという事。後継者なので娘や息子と勘違いしてしまいそうになるが、そこは大人対大人として、節度を持って踏み込み過ぎない事。
この2点は注意していた。

Kさんが来る前までは訪問者などいなかったが、来てからは、役場職員、農業指導員、新聞記者、移住者仲間と、訪問者がひっきりなしに来て、自分たちが就農した22年前を思い出して、また新鮮な気持ちになった。

最後だと思って、一緒に色々行った。
もうすっかり行かなくなっていた放牧酪農家への訪問。
22年も酪農をやってたのに行ったことのなかった、ロボット搾乳の牧場も一緒に見学に行った。

私自身もひとりで、最後だからと自分の牧場を丁寧に歩いた。森の中も(スズメバチが出ると怖いという理由で)入ってなかったけど、行ってみた。山の上も(登るのがしんどいという理由で)登ってなかったけど、行ってみた。

広い放牧地、展望が良くて、森があって、小川が流れていて。
リビングからコーヒーを飲みながら放牧している牛が見えた。
ここをひとに売るんだ。私はここからいなくなるんだ。と改めて思った。
子供の頃から憧れていた農家になり、田舎暮らしが出来て、夢がかなったのに、ここからいなくなる。

寂しくて惜しいと思った。一方、それらから解放される清々しい気持ちもあった。毎日交互に反対の気持ちが沸き上がってきた。
惜しいと思う度に、自分に言い聞かせた。この景色も土地も牛舎も牛も機械も何もかも死ぬ時に棺桶に入れて、あの世に持って行く訳にはいかないのだ、と。

憧れの田舎暮らしとか言いながら、何もかも中途半端に終わったのは、就農してから予想以上に忙しく、予想以上に(私が)怠け者だったからだ。
そう。怠け者だと田舎暮らしは楽しめないんだ。
40町(40ha)の牧場は私にとっては、キャパオーバーだったんだ。

Kさん夫婦も田舎暮らしに夢があるみたいで、ナチュラルフラワー、ニワトリ、羊、養蜂、家庭菜園、果樹、いろいろやってみたい事があるらしく、怠け者の私からしたら、まぶしすぎる。

さて、後継者(研修生)が来てからの日々は、一言でいうと長い。
私たちが就農するまでの研修中の2年半も長いと思ったが、それ以上に今度は離農するまでの1年半も長い。長すぎる。
かつて、定年間近の獣医さんのやる気のないのを見て来たが、私自身がまさにあんな感じになっている。ただ消化試合をしている感じである。

それでも、最後の長い長い冬の間にいろいろやった事がある。
Kさんに譲るための中古資産を把握するために、22年間の帳簿を確認していった。そして実際に工具とか中古備品の棚卸を全てやった。

引っ越し荷物を少なくするためと、いらない物を捨てるために、子供たちの写真やアルバムを全部見ながらデータ化した。8ミリビデオも大量にあったのを全部見ながらデータ化した。

大変だったが、やって良かった。この過去に対する棚卸は、終わりを確認する作業でもあった。酪農経営と田舎暮らしと子育ての全ての過去を振り返り、全ての終わりを確認していった。

Kさんとの関係は、全てが順風満帆だったと言ったら嘘になる。やはり他人だし、しかも利害関係の対立する他人なので、ギクシャクした事はあった。でもその時に夫が「1年半、何事もなく過ごす事が一番の目標だよ」と言った。
私もその時、1年半後の自分たちがどうなっているのか想像してみた。
そうすると、順調に事が進み事業継承が済んで、ニコニコしているKさんと私たちの姿しか浮かんでこなかった。
そうだ。これなら大丈夫だ。絶対に時間が解決してくれる。そう思って乗り切った。

今現在は、とても円満な関係になっている。このままいくだろう。いけばいいな。

2023年11月に私たちは離農する。
子供たちの住んでいる関東に引っ越す。
これからやりたい事は山ほどあるが、とりあえずほとんど休みなく働いてきたので、1年くらいはゆっくりしたい。

本編と、おまけと、あとがきと、最後まで読んで下さってありがとうございました。切りの良い#50までは書こうと頑張りました。
またどこかでお会いできる日を。(おわり)


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