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正しさや正義の落とし穴「うっかりさん」にならないように

自らの正しさや正義って時として、人を盲目にするなぁっていう気づき

先日、教育関係の方々とテーブルを囲む機会をいただきました。現在の日本の人材教育環境に疑問をもち、自らの努力で教育環境を変えていけないかという課題感をもって活動されています。

本当に素晴らしいことに取り組まれているなぁとしみじみ感じました。

テーブルの内容も日本は、「クリティカルシンキング」がかけているというビジネスシーンでも言われている話で、とても興味深く拝聴しました。

クリティカルシンキングとは
クリティカル(critical)の意味を調べると主に、「crisis」から派生する「危機的な」「致命的な」「重要な」「重大な」という意味。また「critic」から派生する「批評的な」「批判的な」とでてきます。

クリティカルシンキングとは、日本語では「批判的思考法」と訳されることが多いのですが単純に、「物事を批判的に捉える」という思考法ではありません。
ネガティブな「批判」をするのではなく、物事の前提や内容、判断が本当に正しいか、なぜそうなのかを多角的に検討し、客観的・論理的に思考して最適解を導きだす思考法です。

周囲の方々も「そうそう」と全員が同調して会話は、さらに盛り上がり。

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が、良い話のあとの次の展開が今回のテーマの本題です。

一人の方がとある教育機関に出向いた際に、指導にあたる方の態度が高圧的であったという話をシェアされました。とたんに同行された方が同調し「あの態度はない」とテーブルは一気に批判的な意見の巣窟になってしまった。

お?さきほど「クリティカルシンキング」云々という話だったのでは??と疑問符が私の頭に飛び交った。「クリティカル」の意味の理解がそもそも私の違うのでは?と思うほどに一瞬の相手の行動がなっていないという視点で話しが展開していく様は、なんとも残念。

せっかく「クリティカルシンキング」からの流れだったので
「それは、残念な場面でしたね。」と受容してから
「もしかしたらその方もとてもストレスフルな状況だったのかもしれませんね。あるいは、ご自身には悪気はなく、周囲にそう感じさせてることにも気づかれていないのかもしれませんよ。」と別の視点の見解をほうりこんでみました。

こういった話は、随所で見受けられます。周囲のことは客観的に目につきやすいものです。自らの信念や正義が強いとバイアスが強くでがちです。

解決できそうな行動としては、
「その場で感じたことをきっかけに話しかけてみても良かったですよね。」
「たとえは、コミュニケーションがネガティブ傾向の人は、ご自身が大変だ!といっぱいいっぱいなことが多いので、まずは労いの言葉や感謝の言葉をかけたら笑顔も出てきたかもしれませんね。」

と本人のいないところでいくら議論しても意味がないので、解決したいと思うなら本人に対応した方が建設的ですよというメッセージもこめて行動できそうなことも提案してみました。
するとテーブルは一瞬空気が「ひや~~~」っと静まり、ぎこちなく他にも出来そうなことなどが展開していきました。

最初に口火をきったかたは、何やら黙り込まれて複雑な表情をしておられました。

人は、良いことや意義のあることを信念をもって行動しているとその信念や自らの「正しさ」に照らし合わせて、物事を短絡的に批判しがちになるものだということを常々頭においておくことが大切です。
私もうっかりすると短絡さんになりがちなので、人の振り見て我が振りを見直した次第。
また、知識や言葉として話していることが行動できているか?もまた別の話になっていることがよくある

この話には後日談があり、口火を切った方は、視点がせまくなっていて感情的になっていたという内省された文面と別の物の見方を皆さんと話すことができて良かったというメッセージを配信されてました。

健全な意見交換ができて良かったなぁという振り返りを込めて

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