「哲学の先生」と話す怖さ―國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』


國分功一郎さん。

教科書に載っていて、なんだかかっこいい人だなと思っていたら、同僚がファンだったので、なにやらたくさん本をおすすめされた。番組やオンライン授業なども見た。ほう。写真以外もかなりかっこいい。そして、お話の仕方がかっこいい。口から流れ出てくる文字が文章となってつるつると流れ出してくるような。とてもよいお声。先生のどアップを二時間も眺め続けていてよいのかしら…まさか質問もできたりするのでしょうか…そんな恐れ多いことをしてもよいのですか…という、どきどきのオンライン授業。

哲学は、私は挫折した身なので、よくわからないのです。なにやら横文字がたくさん出てきて難しそうだねぇ、というぐらいしかわからない。哲学をしている友人もいるし、思想史をやろうと思った時期もあったのに。何も分からない。

そんな私でもわかりそうな本があったので、手に取ってみた。

『哲学の先生と人生の話をしよう』。

ウェブマガジンで、國分さんが、読者の人生相談に乗るというもの。

私は、國分さんは、まじめな方だと思っていた。

私は、國分さんは、学問一筋に生きてきたお堅いお方だと思っていた。

私は、國分さんは、あのすてきなお顔とすてきなお声ですてきに優雅にお暮らしなのだと思っていた。

私は、國分さんは哲学のすべてを身につけた紳士なのだろうと思っていた。

私は、國分さんは優しいお方なんだろうと思っていた。

嘘や。

ある日、Twitterで「俺」という一人称を使ってらして、「あれ?」と違和感があったのです。「あれ?」は続いて、國分さんは一人称「俺」の人なんだ、あー意外、ということがわかりました。ほかにも、自分の声が嫌いだったとかも書いてあって、こんな完璧な人にもコンプレックスがあるのだとびっくりした。

Twitterで、ほんのときどき暴れていらして、あれどうなさったのかな?と思うことはあるのです。

この本は、恐ろしい本でした。

大暴れしてらっしゃいました。

國分功一郎に人生相談をしてはならないということが分かりました。

哲学的に分析されてしまう。その恐ろしさ。

ふつう、人生相談って、相手がどんな答えを求めているかがだいたいわかっていて、よほどのことがない限り、それに添うようにアドバイスをするではないですか。

國分さんの場合は、そうではなかった。

その人を、分析する。その、文章から。その分析結果を、答えとして提示する。

その人生相談に「書かれなかったこと」「くり返し登場するフレーズ」「口調(文体)」などから、その人生相談を書いた人や気持ちを分析する。自分が書いたこと、ではなく、書かなかったこと、行間を読まれてしまう。それはとても恥ずかしいこと。その恥ずかしいところを責める國分功一郎。そんなことをすると、私はもう國分さんに対して何も文章を送ることができないし、話しかけることもできなくなってしまう(ちなみに何の接点も現在ございません)。

國分さんのところの学生さんには絶対なりたくないと思わされた。もちろん、國分さんの彼女にもなりたくないし、國分さんの奥さんにもなりたくないし。國分さんの子どもにもなりたくない。友だちにだってなりたくない。同僚になりたくない。國分さんは、遠くから眺めているのが一番良い。

答える際に、國分さんは哲学の難しげな本を引き合いに出すこともあるし、啓発本を引き合いに出すこともある。AV監督の文章を引き合いに出すこともある。堅いものも柔らかいものも、すべて國分さんの頭の中から出てくる。

私が相談しなければならないことになったら、何を相談するだろう。どう文章を書いて、どういう答えが返ってくるだろう。國分さんは何を参考文献として、私の文章をどう読み取って、どう返してくれるだろう。何をどう言ってみたって、この本を読めば國分さんはどSだと分かるし、私はけっこうMのほうなのだ。

自分が文章を書くことが怖くなる、そんな本でした。でも、この本に教えられなくても、もともと文章というのはその人のすべてを表すものだから、恥ずかしいことなのだ。

哲学というのは何なのか、高校生の時から憧れ続けているくせに、いまだによくわからない。でも、行間を読み取り、あえて使われなかった言葉を想像し、文末や口調などから想像していくこと、それが哲学の作業なんだろうなということはわかった。

そして、恋愛って何なのだろうと思わされた。ことさら國分さんが恋愛話ばかりを選んで答えたのではなく、恋愛相談がもともと多かったようだ。恋愛話というのは人に相談しやすいのだろうか。相談したくなるのだろうか。よくわからないけれど、たしかに私もずっと恋愛話ばかりしている。ことさら國分さんが恋愛話ばかりを選んでいるわけではないだろう。

「利用」、という語が、恋愛話に際してよく使われていた。もはや愛しているのではなく、あなたは彼を利用しているんだよ、と。だから、利用されている彼がかわいそうだから別れたら?と。

私は、恋愛をするときに、「利用」をしていないだろうか?

いや、利用している。何かを見つけたときに真っ先に報告したい。一緒に見てって言いたい。一緒にごはんを食べて欲しい。一緒にどこかに行きたい。一緒にテレビを見たい。ひとりでもできるかもしれないけれど、一緒にしてくれる人がいいのだ。SNSで広く友だちみんなに知らせてもいいけれど、一人にだけ言いたいこともあるのだ。

しゃべり相手。いつまでもLINEしてくれる相手。さわる相手。さわってくれる相手。時間を区切ることなく一緒にいてくれる相手。一緒にいて欲しい。一緒にいて。

見た目が良い人がいい。私がヒールを履くことをためらわないくらいの身長の人がいい。声が良い人がいい。手がきれいな人がいい。字がきれいな人がいい。できたら同じ大学の人がいい。頭がよい人がいい。しゃべっていて面白い人がいい。本を読む人がいい。私ができないことができる人がいい。理系科目とか英語とか。私の範囲を広げてくれる人がいい。

そして、友だちに自慢したい。私のパートナーはこんな人だよって。

前に付き合っていた人は、社会的ステイタスがとても高い人、だった。その学歴と経歴と業績と職業は、誰が見ても驚くような人だった。そこが好きだったわけでもないし、だから一緒にいたわけでもない。なんとなく本能的に好きだったから一緒にいた。でも、ある日、「みきは僕のどこが好きなの」と言われた。なんとなく、とは言えなかった。だって、そのステイタスに惹かれていた部分が確かにあったから。だから、私は、彼を「利用」していた。

それじゃだめなの?

私の彼氏、私が独り占めしているこの人はこんなすごいんだよって、それじゃだめなの?すごい人だから、私は無条件で尊敬できたし、そんな人はこれまでいなかった。そして、私は、別にその人に劣っているとも思っていない。お互いに無条件に尊敬し合えると思っていた。

國分さんなら、私のあの恋愛をどう分析するだろう。

彼のステイタスを利用しているだけでは?それは彼がかわいそうだから別れなよ。と言う。きっと。

相談するまでもなく、わかる。

私は彼を利用していて、だから愛していたんじゃなくて、こんなすごい人に愛されている私、っていうのが楽しかったんだって。

ねえ、恋愛って、それじゃだめなんですか、國分先生?

愛するって、なんなんですか?

そういう、利用する恋愛の、その行き着く末が、「愛する」じゃないんですか?でも、愛するって、どうしたらいいんですか?

どうしたって、何を指摘されたって、どう考えたって、やっぱり、私は、あの人のことが好きだ。ステイタス込みで好きだ。今は、がしがしと踏んづけて、どうにか葬り去ろうとしているけれど。「別に連絡とりたいならばとればいい」と國分さんが書いていたけれど。だめだめだめ。

ぜひ、國分さんには、この本の総まとめとして、恋愛とは何か、どうすればいいのかを書いていただきたい。そうでないと、収まらない。フロムの「愛するということ」とか、そういう本は読んだけど、そうじゃない。具体的に、ほんとうに具体的に、國分さん、書いてください。あるいは、オンライン授業かテレビ番組で語ってください。

それが、國分さんの責任だと思う。