ショートショート 238【時間厳守】
昼休み。
田辺は行きつけの店で大好きなうどんを一気に啜ろうとして躊躇した。「慌てるな」と自らを諭す。
以前ここのうどんを豪快にすすり、勢い余って咳き込んだ際に信じられないことが起きた。麺の断片が鼓膜を突き破り耳から3センチほど垂れていたのだ。
それだけでもエピソードとしては十分濃いが、自転車での帰り道に警察に呼び止められる災難にも遭った。どうやら警察は耳から出たうどんをipodsだと思ったらしい。イヤホンをしながらの自転車運転はこの街では条例違反だ。そもそもipodsなんてその時に知った程度の田辺からすればもう二度としたくない体験だった。
学生時代に柔道を通じて道を極めた田辺は正義感の塊のような男だ。どんな理由であれ警察に呼び止められるなんてあってはならない。時間に対してもそうだ。1秒の遅れは極刑に値するとさえ思っている。
「お熱いの、苦手ですか」
残り時間を気にして急いでいたところ不意に声を掛けられて結局むせてしまう。名札には”内藤”とある。厨房にいる店主から「みっちゃん」と呼ばれている女性定員だ。
年は30ぐらいだろうか。見た目は若々しいのに落ち着きがある。華奢だが足はスラッと長く笑顔が可愛い。つまり田辺とは正反対の世界にいる女性だ。
田辺は秘かに、彼女に憧れをいだいていた。しかし、彼女目当てで通っているように見られては大好物のうどんに失礼だと自分を律する。
「やけどしても大丈夫ですよ。私、名医を知ってますから」
そう言って彼女は聞いてもないのに隣町の病院を紹介してくれた。このフレンドリーさがたまらない。
しかし、柔道の駆け引きで体得した無表情が邪魔をする。田辺は結局「いえ」とだけ言って再び丼と向かい合う。
午後の始業まで10分を切っている。時間厳守。遅刻は極刑。田辺は脇目も振らず豪快に麺を啜った。
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内藤さんが店に顔を出さなくなったのはその翌日からだった。
姿を見なくなってもう1週間が過ぎている。店内はいつもと変わらないように見えるが田辺はどこか物足りなさを感じていた。その証拠にうどんの出汁がいつもよりぬるい。認めたくは無いのだがそんな気がしてならない。
「あんたが田辺さんかい?」
麺をすすっていると調理服を着たオヤジが立っていた。いつも厨房から「みっちゃん」と呼んでいる店主らしき男だ。
田辺が軽く頷くと調理服の男は、すまなかった。と言って一枚の紙切れを見せてきた。
「みっちゃんがさ、田辺さんにはこだわりがあるからうどん作るときはこうしなさいって書いていったメモなんだけどさ、オレ 誰が田辺さんかわかんなくって」
紙には丁寧な字で3行。うどんの茹で時間は通常より30秒早めに。ネギは多めで。出汁はアツアツで出す事。
とある。
「あの・・・」
田辺は珍しく、食事中に無駄口を叩いた。
「み、あ いや 内藤さんは今、どちらに?」
調理服の男が「言っていいのかな」と呟いて、言いたくてしょうがない顔をしている。促すと、堰を切ったように話し出した。
「みっちゃんさ、このまえ健康診断したら癌が見つかっちゃって。驚いたよ。でも自覚症状があって通院してたみたい。だから発見が早かったんじゃないかな。今は手術直後で入院してるのよ。彼女いないとお店困っちゃうんだけど・・病気じゃしょうがないよなぁ」
田辺は柱の高い位置に掛けられた時計を一瞥する。午後の始業までやはり10分を切っている。残りの麺を豪快に啜って金を払う。調理服の男に軽く頭を下げて店を出る。
昼だが外は寒い。白い息が出る。
「すみません。遅れます。」田辺は寒空に向かってそう言うと勢いよく自転車を漕いだ。
会社とは逆の、病院に向かって。
**完**
こちらの続きを書いてみましたー。
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