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【迫真エッセイ】全校生徒の前でコントをした話

私は高校の文化祭でコントを披露したことがある。

カチャカチャ(「高校生」「文化祭」「コント」)
バンッ(エンターキー)

・・・ふむふむ。
スベるに決まってるじゃないですか!!

高校球児が甲子園を目指し、阿部寛の教え子が東大を目指していたころ、鈴木(18)はコントを作っていた。かつてこんなに清々しい青春の無駄遣いがあっただろうか。ググってもスベる以外の解はない。

なぜそんな事態に陥ったかというと、女装した話から始めなくてはいけなくなり、とても長くなるため割愛したい。

話はサクッと高3の春に遡る。


私と即席の相方である亮太はこの日 生徒会室にいた。今年の文化祭のステージでコントを披露させてくれと直訴するためだ。
加藤諒そっくりな生徒会長は唐突な依頼にもじもじとしていたが、私と亮太は「歴史を変えよう!」「新しい風を起こそう!」などとショートコントごときで風など起きるわけないのはさておき、とにかく熱く迫った。

私たちの学校の文化祭は2日間あり、その間 つまり初日と二日目の間の夜に校内のコピーバンドたちが体育館のステージで演奏するイベントがあった。
文化祭の解放感と高揚感で毎年このステージはそこそこ盛り上がる。
後に青春の無駄遣いに気付く(当時は必死な)鈴木はこのステージに目を付けた。

ちなみに相方の亮太という男は、私の突然の「コントをしよう」というおよそ世の中の高校生の0.01%も発しないであろうお誘いに一切不信がることなく、むしろ「オラ ワクワクすっぞ」のスタイルを保てる貴重な男であった。

加藤会長に直訴する途中、この「オラ ワクワクすっぞ」の気迫が凄すぎて不覚にも一瞬引いてしまった私だったが気を取り直して会長に熱く迫った。結局は我々の気迫に押される形で加藤諒はついに首を縦に振ったのであった。

ここから私のネタ作りが始まる。オーソドックスなものに加え、学校あるあるみたいなものを織り交ぜる姑息な手段も当然使った。
いくつかネタが出来ると部活の練習終わりに部員の前で披露した。

何も知らない新入部員たちは「ヤバい部に入ったかもしれない」との表情を隠しきれていなかったのだがヤバい部に入ったのでそのままにしておいた。
ここで特にウケたものをピックアップして本番のネタを整えていく。亮太は「ネタ考えてもらって悪いね」と言っていたが彼の演技力と照れのない突っ込みはスペシャルであり、今思えば完全に私たちの生命線であった。
ヤンキーネタなどでは本物のヤンキーにしか見えないのでちょっと怖かった。

そして、
いよいよ文化祭当日がやって来る。

暗がりに照明で彩られた体育館は異様な雰囲気だった。フロアには既にたくさんの生徒が集まっていた。座席など無いので1年から3年の男女が入り混じって異様な熱気を放っていた。

一番手のバンドが演奏を始めた。体育館は騒ぎたい生徒たちでスタートから大盛り上がりだった。私の出番は3番手のバンドと、トリを務めるバンドの間、つまり大トリの前座的立ち位置だった。
実はこの辺りから、あまり記憶が無い。不安だったのか怖かったのか、掌に人という字を書き、それを飲み込んで嘔吐していた。

そして、時は来た。

ステージ上で司会の生徒が「えー実は今回、」と”自称・新しい風を起こそう”の紹介を始めた。熱気ムンムンのフロアに新しい風など吹き荒れるはずもなく、淡々と私たちの紹介がなされていく。
白目を見開いて袖に立つ私はこの時ですらどんな心境で何を考えていたのか、実はあまり覚えていない。

そんな私だったが、ここで加藤諒会長の粋な計らいによって記憶を取り戻すことが出来る。名前を呼ばれてステージに向かった時、出囃子が鳴ったのだ。

「加藤氏!!!」

私はしびれた。まさか出囃子付きで「どーもー」が出来るとは思っていなかった。すげー気が利くじゃん。やっぱ生徒会長じゃん。と、この辺りから私は冷静さを取り戻し、記憶が復活する。
どのくらい冷静さを取り戻したかというとフロアの隅で口をあんぐりと開けて固まっている彼女をはっきりと認識するほどであった。

当時、私には生意気にも彼女がいたのだが、文化祭の体育館でコントをすることは一言も伝えていなかった。いや、伝えられなかった。
加藤会長には「歴史を変えよう!」「新しい風を起こそう!」などと熱く語っていたのだが彼女相手にこの意気込みを伝えるにあたって、どうしてもカッコよくなる自分が想像できなかった。
例えば壁をドンとして「オレ、コントやるから」と伝えるのもなんか違うし、夕暮れの河川敷で台本用のノートを手渡して「祈っててほしい」と伝えるのもなんか違う。
そうこうしているうちに私は当日を迎え、ステージの上から硬直した彼女を見下ろす羽目になった。

びっくりするのも無理はないだろう。司会の人が「今年はコントをしたいという2人組がー」と話している時に「誰だろうね?」「恥ずかしくないのかね?」などと友達と話していたら自分の彼氏が「どーもー」と言って出てくるのだから。

しかし出囃子で気持ち良くなった「恥ずかしくないのかね?」の人は恥ずかしげもなくステージに小走りで出ていった。

そして、
ここでもう一つ予期せぬことが起きた。私たちが出ていくと同時に観客の方から「うぉー!!」と大盛り上がりの歓声が挙がったのだ!
その歓声の一群は他でもない、部活の後輩たちだった。

私と亮太の「放課後ネタ見せタイム」は図らずもサクラ構成員を作っていたのだった。後輩たちは一度見たネタにも拘らずまた笑ってくれた。つられてフロアも温まったのは言うまでもない。
今私がこうして人として生きていられるのは紛れもなく彼らのおかげかもしれない。この場を借りて感謝したい。

どの学校にも一人はいる有名な先生をいじるネタで出だしを掴むとそのあと計7~8個ほどのショートコントをこなした。
亮太の声はとんでもなく出ていた。バンドのボーカルより出ていた。さすがの切れ味なのでこちらも気持ちよくなり、彼女の視線など忘れて台本通りボケた。
時間にして15分ぐらいだろうか。あっという間に夢の時は過ぎて、私たちの幕は閉じた。


この後 受験勉強に忙殺された私たちは、お笑いのことなど1mmも考えない日々を送っていた。

そして、
卒業して上京した私は、HIPHOPを教えてくれた友人と一緒にクラブで遊ぶようになる。決して陽キャになったわけではなく、ダンサーやラッパーの表現者としての奥深さにに憧れ、文化的なたしなみとして渋谷や六本木を徘徊していた。
そういう意味ではコントをしていたあの時と全く同じだった(違う)。

ある日クラブでチュッパチャプスを舐めていると前からガタイのいい男二人がこちらに向かって歩いてきた。知った顔ではない。
この頃とても貧乏だったため、減りの早い煙草の代わりにチュッパチャプスを咥えていかにも煙草を吸っている風を装うという技(?)を好んで使っており、それがバレるのも絡まれるのもどちらも嫌だった私はわかりやすく狼狽えた。

思わず逃げようとした私に男たちは「鈴木さん!」と軽やかに声を掛けてきた。
「はて?」
フル回転で記憶を辿るが思い出せない。すると男たちはこう続けた。
「文化祭でコントやった鈴木さんですよね!オレたちも〇高なんすよ。あの時見てました!」

なんと!!

静岡の田舎高校で一花咲いて一瞬で散った私の青春は、箱根八里を超えてこの渋谷までやって来たのだ。
何とも言えぬ嬉しさと恥ずかしさ。ハチ公もびっくりの物語である。

私は妙に懐かしくなりチュッパチャプスを二人にも分け与え、かろうじて先輩面を保った。
二人は当然「何すかコレ」といった顔をしていたが快く受け取ってくれた。あの時と同じだ。

事情を知らない友人がすかさず「誰あれ?」と問うてきたが私は「命の恩人だ」とだけ答え、チュッパチャプスの棒に火をつけて慌てた。



青春というものは恐ろしく、紐など付けずにバンジージャンプをしてしまう様な危うさがある。
しかしそれでも死ぬとこなく生き続けられるのもまた青春である。

躊躇しているのならやればいい。
私は全ての調子乗りを後押しする。その結果何が残るかは不明だが、ネタの一つぐらいにはなる。
健闘を祈る。



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