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【考察】優しさとは、沈黙する事なのか。

僕にとって「沈黙」は悪であった。

同じテーブルに3人もいるのに、シーン・・・。としたランチタイムなどあっていいものか。
その卓に先輩が居ようものならば一方的な使命感により、わんこそばの女将の如く間髪入れず話題をぶち込んだ。

口だけ動いて箸が動いていないのもまずいので、ランチタイムはとにかく大忙しだった。食べて、しゃべって、リアクションを取って、食べて・・・。



■優しくなりたい

ここ最近は人に対して優しくなりたいと、強く思うようになっていた。

これまでは言うべきことをしっかり伝えるのが正義、それがつまり「優しさ」だと思っていたが、そんなことはどうやら独りよがりにすぎないらしい。
みんなそれぞれ思い悩み、今を過ごしている。赤の他人が外側から否定できる筋合いなど、よくよく考えればどこにもない。

聞き上手が優しさの代名詞と言われる所以はここにある。
口を挟まないから他人に興味が無いのではない。聞くこととは、相手を慮(おもんばか)って全てを受け入れることなのだ。



■話す必要の無いこと

思えばランチタイムは蛇足の連続だった。
話題の提供は自分の中の使命感だった ということに嘘偽りは無いが、その代わり 話のネタはいつも手っ取り早い「他人のこと」に及んでいた気がする。

今思えば本当に無駄な発言ばかりだった。相手を慮り、尊重すれば、どこにも他人が意見する隙など無いはずなのに、良く「あの人は・・・」と切り出していた気がする。
これはランチタイムより飲み会の席の方がより顕著に現れていた。場を持たせるために余計なことを言う。誰かの話を、ただ場を持たせるためにしていた。

いつも帰り道に、余計なことを話しすぎたと自己嫌悪になっていた。一方で、場に沈黙をもたらせなかった自分を肯定したりもした。
当時は何が正解かよくわからなかった。しかし、優しい人になりたいのならば、それは話さなくて良いことばかりだった。


こうして僕は、話せなくなった。


■飲み会と、沈黙

コ口ナ禍における黙食の推奨と、飲み会の自粛は、自分を立ち止まらせ過去を振り返るのにはうってつけの時間だった。

個人的にはもう以前のように週に何度も飲みには行かないだろうし、行ったところで沈黙を怖がって無理に話すことも無いだろうと思う。

他人に対して「何でこんなことするの?」とか「どうしてこうなっちゃうわけ?」と思うようなことがあったとしても、同時に相手の事情と思惑というのをよく考えるようになった。

そしてよく考えると、ほとんどが特に他人は何も言うべきではないな、という結論に落ち着いた。

無理をしているわけではない。じっくり時間を掛けて考えると(つまり沈黙を怖がらずにじっくり脳内で咀嚼すると)なるほど否定的な意見はあまり出てこない。

僕は以前よりしゃべらなくなっただろうし、他人に興味が無い人間に見えてしまうかもしれない。
でもそれこそが優しい人間の本当の姿だし、その優しさは口数少なくても相手には伝わるのではないかと思う。

僕は話せなくなった。けど、きっとこれで良いに違いない。





本日も、最後までお読みいただきありがとうございました!




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