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【⚽️日本サッカーを愛そう】今こそ、川淵キャプテンの功績を語ろう

週末になるとTwitter界隈で聞こえてくる言葉。

「あぁ、週末にサッカーのある幸せ」

そう。我々の生活には今、フットボールがあるんですよね。沼に嵌れば年間を通して一喜一憂。ではなく、一週喜一週憂
野球などと違ってサッカーは毎日できないので我々ファンは週末の結果に一週間ニヤニヤしたりモヤモヤしたりするのです。

本日は、こんな罪深い環境を創った男を改めて取り上げたい。

川淵三郎である。


■毎週末五輪

本題に入る前に少し脱線。

よく、「Jリーグは見ない。レベルが低いから」という人がいますがそれは一つの意見。肯定も否定もしない。Jリーグ見てる人ってそこじゃないんですよね。

クラブを応援することは、言うなればアイデンティティの確認作業

分かりやすく言うとオリンピックが毎週末ある感覚。「ニッポン頑張れ」「ニッポンやった金メダル!」「すごい歴史的快挙だ」「こんな日が来るなんて!」「残念。でもよく頑張ったさすが俺たちの代表」。
これら中には、レベルどうのこうのを超越した概念があります。

つまり、

Jリーグのファンってのは自分の生活圏にそういう概念を持てている恵まれた人たちなんですよね。海外肯定国内否定マン相手にキーーーッとなっている場合ではありません。そこではないからです。

で、

この「レベルどうのこうのを超越した概念」の土台を創り上げたことこそが、川淵三郎最大の功績。

キーワードは、地域密着です。



■三郎、企業名やめるってよ

ご存知の通り、Jリーグクラブには企業名が入っていません。これは欧州、あるいはメジャーを見渡しても当然の文化なのですが、日本はそうではありませんでした。

僕が最も凄いなと思うのが、あの時代、あの環境で川淵さんが地域名を冠した球団名に拘りぬいたこと
企業が悪いわけではありません。100年続くリーグを創るためには地域の人に愛されないといけないという信念を貫いたのです。

私の調査によると(今年、昨年を除き)Jリーグの観客動員数は年々伸びています。藁ではなくまるで炭に火が付いたように少しづつ、でも力強くリーグを加熱し続けています。


リバプールも然り、マンチェスターも然り。バルセロナも然り。ミュンヘンも然り。
地域と共に熟成される海外リーグと同じ道を、川淵三郎のこだわりのおかげで我々も歩めているんですよね。

今はまさに熟成の最中。Jリーグファンはそれを目の当たりにしている生き証人なのです。


クラブは人生の一部。



■三郎、会社辞めるってよ

そしてもうひとつ、

僕がとても驚いたのが川淵さんがJリーグを創ろうと立ち上がったのが51歳の時だったという事実。当時、川淵さんは古河電工の部長職に就いていました。

51ってあんなに頑張れるんでしたっけ?僕はまだ見ぬ世界ですが多分頑張れないと思います(笑)。引き継いだんじゃないんです。影も形もないところから始めたのです。自分の可能性って自分が決めるんだな、とつくづく。


様々なエピソードを拝見しました。設立委員会は反対の嵐だったとか。

「前例がない」「時期尚早だ」「成功するわけがない」

潰れる会社の3拍子。
それが、当時のサッカー協会。および企業トップ。および行政トップたち。当然、約10年後にワールドカップ出場することなんて知らない人たちの主張。

このネガティブ集団に立ち向かっただけでも川淵さんの功績は計り知れないと思います。途中で心折れて押し切れなかったら今の日本サッカーはどうなっていたでしょう。ちょっと考えただけでもぞっとしますね。

また、

少数ながら味方がいたとも述べています。
それが長沼健氏(当時サッカー協会会長)、そして細川泰氏(当時日産自動車副社長)だったとのこと。
年齢も役職も上だった彼らはagainstな窓口を引き受け、川淵さんを自由に行動させていたと言います。

やはり、成功の影には優秀なフィクサーがいるんですね。特に長沼さんは辞められる直前は世間から「辞めろ!辞めろ!」と言われていたのですが(ちょうど今の田嶋さんのような?)、このように尽力されていたことは知りませんでした。。。このエピソードを知って個人的にちょっと謝りました。心の中で。


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長沼さんは加茂さんを更迭。辞めるのはお前だ!との声も。


■読売、サッカー止めるってよ

川淵さんのエピソードの中で最も強烈だったやつを最後にもうひとつ。
それは読売・渡辺会長(通称:ナベツネさん)との攻防です。

地域密着、企業名排除に対し、最も抵抗したのが読売クラブの渡辺会長でした。巨人軍のブランドっぷりを見れば想像も難くありません。

川淵さんも51歳とはいえナベツネさん相手ではひよこ同然。世間知らずの若造が失礼極まりない!といったところだったでしょう。しかし川淵さんは他のことを考えてたそうです。

スポーツ界のドンに対するリスペクトは持ちつつも、この攻防がプロリーグ発足の大宣伝になるとの発想を持っていました。
当時、スポーツ界におけるナベツネさんの発言力の強さは大統領並み(笑)。取材陣を一喝すれば翌朝のスポーツ新聞の見出しが変わるほどの影響力を持っていました。

結局、読売側がこの条件を飲む形でリーグはスタートします。ヴェルディ川崎の誕生です。当時のヴェルディの強さは説明不要でしょう。

しかし大事なのはその後の話。


1998年 読売がスポンサードから撤退。ヴェルディは本拠地・等々力競技場を出て川崎の冠を外しました
その空き家で新しく主になったのが当時弱小だったフロンターレ。フロンターレは逆に地域密着を強く掲げ、確実に土壌を作っていきます。そして今ではリーグを代表するチームに。
その陰に「川崎」を愛する多くのサポーターがいることは言うまでもありませんよね。


ヴェルディという球団に罪はありません。ただ一つ言えることは、川淵三郎の理念の骨子であった地域密着の考え方は正しかったと証明する歴史的事実ではないか、ということです。


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川崎はついに”オレたちの庭”を手に入れる



■最後に

オリンピックの開催をめぐって日本中が混とんとしている時、川淵さんの発言を「老害だ!」とする論調が一時蔓延しました。

51歳でプロリーグ発足を完遂した人ですから、強烈な個性の持ち主であることは間違いありません。そして、得てしてこういう人が老害の候補生だったりします。実際に川淵さんも例外ではないでしょう。


ただ、

私たちが楽しんでいるJリーグあるいは代表戦の裏には、間違いなく三郎の功績があるという事実を、特にリーグ発足当時を知らない世代には知っておいて欲しいなと、そう思うのです。

功績とは、Jリーグを創ったこと。それから、そのリーグを地域密着に拘ったこと。当時を知る人にはその偉大さがわかるでしょう。どちらも当たり前ではありませんでしたから。


もしかしたら、日本代表のワールドカップ出場も、毎週末の熱狂も、ドゥンガやストイコビッチやイニエスタ選手の来日も無かったかもしれません。
そう、川淵三郎は私たちにフットボールを与えてくれたのです。

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三郎 ハンパないって。



あの時代、あの環境で川淵さんが踏ん張ってくれたことに、私は心から感謝しています!!




本日も、最後までお読みいただきありがとうございました!


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