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島に憧れる私が過ごした2週間vol.6~大切なことに気づいた~

なぜ私は島に魅かれる?

ごりりんと夜にお話をした時になんで島に来たいって思ったの?と聞かれた。
新上五島に来る前ははなんとなく魅かれるとしか思っていなかった私が2週間就業して少し言語化できるようになった。

ごりりんは「人が外から来る理由は3つのうちどれか。土地、仕事、人」と言っていた。
確かにそうだなと思う反面、一番は「人」ではないかなって思った。
土地や仕事に惚れてという言葉はよく聞くが、どんなに良い土地にいたり、仕事についていて関わる人が最悪ならば楽しくないと思う。だから結局は人ではないかと。

島はコミュニティが狭いから人との付き合いが濃い。
島の人はみんな気さくでたくさんの人が話しかけてくれるし、びっくりするくらい親切だった。しかも知り合いの知り合いだと判明することも多い。
私はSNSが発達し、面と向かってのつながりが薄い都会よりも温かく感じた。
一緒に過ごしたりんも
「テレビもない、電波もないことに不自由さを感じることなく、自然と人の温もりの良さが溢れていました」
と言っている。
付き合いの濃さによって面倒なこともあると思うが、いざというとき助けてくれる、声をかけてくれるという存在がいることが魅力ではないか。
島は海を囲んで他の土地から切り離されたからこそ、その中での人のつながりの強さが生まれ、そこにさらに自然や仕事も重なって魅力あるものに見えるのだと思った。


島の方があるべき姿?

日本で唯一の友人離島専用フリーペーパーritokeiの養老孟司さんのコラム「島がホントで都会がヘン」に書いてあってはっとしたこと。
以下本文の一部抜粋、一部省略改変。

――日本はいつ震災が起きてもおかしくないんです。今の状況が無事に続くとは僕は考えてません。そこで一番重要なのは水と食料です。生き残るには万事手近なもので間に合わせるしかありません。地域で自立していくことを考えざるを得なくなるんです。

――魚屋、八百屋、スーパーがなく、流通の面で不便と言われる小さな島では、家庭菜園を行う世帯が多くあります。そうして暮らし方が当たり前にある島は、生命力が強いと感じます。

――つまり、”離島の生き方は特殊だ”という考え方は全く逆で”都市型の生活は特殊だ”と捉えるのです。

上五島 若松

――先進国は軒並み人口減少しています。都市化をすることを人間はどうやら「住みやすくなる」と思っているようですが、実は住みにくいから子供がいなくなるのです。
離島地域の出生率はまだまだ高いですね。今はうつを代表として精神科系の病気が多いですね。みんな我慢していきているんです。なせ我慢しなければいけない世界を努力して作らなければいけないのか。

――強制的に田舎に行けと僕は言いません。行きたい人が行けばいい。ただ、こうした暮らしが続けられないことは分かっていた方がいい。

――世界が都市化したことに対して、自然が残っていることが島の価値だというのではなく、考えを逆転してみましょう。島みたいなところで生きるのが人間の本当で、都市は変だということです。fin

上五島 朝の漁港

確かに都会は自然とかけ離れ、必要以上にものが溢れ、近隣に住んでいる人の顔も名前も知らない、スマホ等電子機器に依存する人たち。資源の循環はなく、人類の歴史の中で大半を占めてきた自給自足という概念には全く当てはまらない。確かに歴史を振り返ればヘンなのは都会の方かもしれない。

資源の循環についてはえんでの暮らしは持続的なことが多かった。飼っている鶏は残飯や生ゴミを食べてくれる。鶏は毎日ごちそうが食べれるし、人は捨てるゴミが減る上に卵をいただける。開墾途中の土地はヤギやポニーが雑草を食べてくれ、その糞は畑の肥料となる。塩づくりやお風呂沸かしの薪は全て廃材。家を解体した際の廃材の処分には費用が掛かるのでえんで引き取って薪として使っている。えんは自給自足も行っていた。就業期間中だけでも豆腐づくり、醤油づくり、椿油絞りした。また住んでいる家や作業場などもごりりんが自分でつくったそう。
どれも都会にいればさっと買うだけのものでしたが、一から作っていた。

すぐに何かを得れる環境ではないからこそ自分たちでどうにかしようと考える、工夫する。
人が本来の人らしく生きれる場所は島なのかな。

養老孟司さんの言う通り、自然が残っていることだけが島の価値ではない。島みたいなところで生きるのが人間の本当で、都市は変かもしれない。

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生きるとは?

以下はえんで発行している 五島通信 晴耕雨読 平成11年のちーちゃんの文から引用。

現代社会の中で生活をしていると、自分ことなのに分からないこと・見えないものがたくさんある。

自分が食べるお米がどうやって作られたのかを知らない。お金を払ったらそれまでで、そのお米を作った人の顔や思いまではなかなか見えてこない。
スーパーに陳列されている刺身を見て、この魚は切り身のかたちのままで泳いでいると思う子供もいるという。
その魚がどうやって生まれ、何を食べて生きてきたのか。その生きている魚を自分の手でシメて初めて、感謝して食べることができるのではないだろうか。
そんなちょっとしたことを知り、感謝しながら生きていくことはできないのか。
物事の根っこの部分が見えなければ自分にとって本当の価値なんてわからない。全てのことを一つ一つ納得して確かめながら生きていく、それが私の理想。全てを知ることなんて不可能だし、知る必要のないことも確かにある。
でも余計な情報が向こうから勝手にやってきていつの間にか見えないレールの上を歩かされていることがたくさんある時代で、本当に知らなければいけないことはそんなにないように思う。
本当に必要なことはそれこそ、自然と入ってくるものだと信じている。
なぜ学校に行かなくてはいけないのか、なぜ働くのか、そしてなぜ生きていくのか。そんな大切なことをしっかりと考えながら生きていきたい。
今はただ、分業社会を否定することなく(否定もできないが)、また内に閉じこもることも決してしないで、自分の理想を目指して色々なところにトライしていこうと思っている。

えんの風景

確かに都市での生活はものと自然が遠くて、ものは本来すべて自然から作り出せれているはずなのに、ものと自然が結びつかない。
だから過程も何も知らない。だから感謝は少ないのかも。
五島にいた時の方が食卓に届く前を知れたから、いつもより感謝して味わって食べていた。

そして、情報が多すぎる社会だからこそ、情報に踊らされて見えないレールの上を歩いていたのかもしれない。
例えば、高校を卒業したら良い大学に入って、良い企業に就職して、結婚して出産して……
これが正しいなんで誰も言っていないのに疑問を持たずにこの流れに従う人は多いし、外れた人に対して無理でしょという声も多い。
自分に対して本当に必要な情報や、本当に今知らなければいけないことを取捨選択していかなければ、楽しく生きれそうにない気がする!

今の大学生が考えることは、どんな良い企業にはいることや、どんなスキルを身に着けるかではなく、
ちーちゃんの言うように、なぜ学校に行かなくてはいけないのか、なぜ働くのか、そしてなぜ生きていくのか。の方がこの先大事かもしれないね。


えんでの2週間を経て

人として大事なもの、大事な考え方を与えてもらった気がする。
言葉ではうまくまとめられないし表現できないが、心が温かくなるようなもの。

そして私の理想の暮らしのかたちも見えてきた。

私は「作り手や作る過程が見える暮らし」がしたい。
食べ物でも、日々使う道具でも、何からできているのか、どうできているのかを知り、この人が作ったから買いたい信頼しているといった環境でできる限り過ごしたい。

ないものは買う。ではなくて、
何かで代用してみる。自分で作ってみる。ない環境すら楽しんでみる。そういう暮らしはいいかも。

お金はたくさんなくてもいい、でも自然に囲まれて、人と人はめいっぱいつながる、そんな暮らし方がいいなと思った2週間だった。

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