自分の言葉で話す/書く事

他人の言葉ではなく、自分の言葉で話す/書く事について。

ここで言う自分の言葉とは、『己が発した言葉全般』ではなく、『言語上の人マネではなく、自分で改めてちゃんと考えて発した言葉』を指す。

先日読んだ本やブログで、ざっくり以下のような事が書かれていた。

現代社会では、インスタントに大量の情報を無料で入手できる。
簡単に、一瞬で沢山の他人の言葉を探せる。
圧倒的に二次情報が増え、相対的に一次情報が減った。

これにより、表面的な他人の言葉のコピペが増えたのではないか。
真の意味での、自分の言葉で考えて話す/書くのが下手になりつつあるのではないか。


、、、そうかも。
日々、我々は自然に大量の情報を得ている。
ただ、ほとんどが自分がリアルに体験した訳ではなく、スマホ、youtube、テレビなどから得る二次情報だ。
「自分が経験して獲得した」ものではなく、どこか右から左に流れていく感がある。

言葉としては記憶してるけど、自分のモノになりきってない、他人の価値観のままの言葉。
これを上部だけコピペして使ってるだけなのかもしれない。

この社会において、実際に自分で体験して獲得した事は、知っている事のうち、ほんのひと握り。
せめて二次情報、他人の言葉を自分の価値観と照らし合わせて落とし込みたいんだけど、これすらどんどん薄れていっている。

世の流れが早すぎて、受け売り、コピペつぎはぎでやっとになっているのかもしれないな。

ちなみに、「右から左に流れていく感」「コピペ感」に全く共感できない人もいるだろう。
それは「なんで?」を追求する、納得しないと気がすまない真面目な人だからだと思う。
私は、そこまで考えるのだるいから、なんとなく空気感間違えなければいいか。という適当なタイプ。
多分マジョリティタイプである。
意図せず妥協?できるの楽は楽だから。
そして、人は基本楽に流されやすいから。

さて。
自分の言葉で話す/書くことの意義を考えると、自己理解・自己満足を高める事に一役買っていると思う。

自分の内面を、他人の言葉(=価値観)そっくりそのままで整理つけようとすると、しっくりこなくてスッキリしない。
自分に落とし込んでない言葉、等身大でない言葉は、どこかでストレスを産む。
副作用が生じるのだ。
逆に、自分に落とし込んだ等身大の言葉はストレスを産まない。

なので、一度自分の言葉、価値観に変換して、自分の中で消化できる形にした方が良い。

自分に落とし込まれてない言葉を使うのは、ぶっちゃけダサい。
背伸びしてて、中身スカスカで、多分他人から勘付かれてしまう。

大昔に自分が作った簡易ブログを見返してみた。
こんな記事書いてるから余計かもしれないけど、小難しい言葉の羅列、ザ・コピペという感じで、自己顕示欲すらも垣間見られ、とても薄っぺらい感じがした。
多分、当時の自分もそれがなんとなく気づいてはいた気がする。
そして、ダサさを隠そうと焦って、結局またダサさの上塗りする、みたいな事をなんならしてたかもしれない。

世の中情報が溢れてるから、リアルすごい人が沢山いたり、SNSでは皆自分すごいんだぞっていうのを表現してるから、焦って背伸びしちゃってた、というのもあるのだろうか。

ただ、焦って背伸びしようとしてもレベルは上がらない。
レベルを上げるには、等身大の自分、自分の地力を上げること。

本記事で言えば、地力を上げる=自分に落とし込まれた言葉を使う。
である。

これにあたり、ブログ書くのは、言葉を一定自分に落とし込む必要があるので、良い練習であると言えると思う。

あと、ブログ掲載は人に自慢する類の満足感ではなく、基本は自己完結型の自己満感がある。
なので最悪、実質全然地力が上がってなくても、私にとってはこれだけで割と満足なのだ。

うん、そう考えるとブログっていい趣味だなぁ。

言葉のみならず、いい意味で無理しない、等身大の自分でいる事は、精神衛生上の安定、ひいては幸せに繋がる。
いい意味で無理しない事が、前よりできるようになってる気がする。
歳もあるけど、無理する原因となる、コンプレックスを時間をかけて多少なり解消してきたのもあると思う。
というのはいつか別記事にてまた書こうかな。

以上、おわり。

追記20211002

最近読んだ本、『日本人は「やめる練習」がたりてない』に、自分の言葉で話す/書く事の重要性について書いてあったのでメモ。
超タイムリー。

思考停止を繰り返せば、自分が何者かわからなくなる

「自分が何が好きなのか、よく分からない」と言う人がいる。
そう言う人には、自分の本当の気持ちを理解するプロセスが必要かもしれない。
筆者長男が日本の公立小学校からマレーシアのインターナショナル・スクールに来て「初めて作文で本音を書けるようになった」と言っていた。
日本で「運動会はつまらなかった」と書きにくい。
「準備した人の気持ちをちゃんと考えて」などと怒られてしまったりするからだ。
ところがイギリス式の学校では「つまらなかった」が許される。
その代わり「どうしてつまらないと思ったのか、相手を説得できるように文章を組み立てください」と先生に指導されるからだ。

言葉を大事にするという事は、自分を大事にする事につながると思う。
毎回「運動会、力を合わせて頑張ったので楽しかったです」などと、心にもないものを書いていたりすると、そのうち自分の本当の気持ちがわからなくなってしまう。

夢があるのが正解、運動会が楽しかったが正解、としている限り、本人オリジナルの複雑な思考が閉じられてしまいわ「力を合わせて頑張った」風の思考停止に陥ってしまう。
そして思考停止を繰り返していけば、自分が何者なのかがわからなくなる。
ある程度の建前の使い分けも時には重要だが、自分で自分が分からなくなってしまっては意味がない。

だからまずは、自分の正直な気持ちを意識するところから始めた方が良いと思う。
建前と本音を使い分ける国では難しいしれないが、本音を言える場所を確保しておく。
文章を書く事は、良い訓練になるだろう。

なるほど!
日本は小学校から右ならえの教育で、本音を出せない事が多い。
本音を出す習慣がなく思考停止を続けると、自分が分からなくなる。
自分の幸せは自分次第だが、その自分が分からなければ幸せは遠のく。
もしくは、たまたま今が良くても、環境変われば適応できない。
といったところだな。

過去の自分にも、友人知人を見てもとっても納得。

本音の整理、文章を書く練習という意味で、自己満ブログやnoteはやはりいいな。
と改めて思いました。

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