モラトリアムナショナリズム
ある種、
個としての自分の、
それが社会にもたらす無差別主義で、
優勢論を振りかざすアジテーターである場合、
それらの発するプロパガンダは、
客観性の取れてない、ものすごく、現実味のある抽象であります。
ナショナリズムが自国の中に芽生え、可視化され、愛国無罪の兆しを醸す。
その、信憑性は何処から、いつから、何処へ向かわせる意味を持った情報なのであるのか。
右翼を謳ったモラトリアム性が、無害有害の区別なく、攻撃性を増し、心の中で正当性を保とうと必死に、、心の整合性の取れる情報をかき集め、自己弁護の武器を振りかざす。
愛国無罪だの、ナショナリズムなどとは統制を取りたい、権力が蒔く豚の餌。
右翼だの、左翼だのの言葉のみに踊らされている、民を見ているのは甚だ失笑でございます。
一つ言えるのは
合理性は言葉でない。
何を成して、何を得ようとするか、その過程と結果と、目的だ。
統計。
目的は、右翼や左翼ではない。
謙韓や反日ではない。
保守的でいること、革新的でいることではない。
当然、リスクが大いにつきまとう。
つまり、責任。
目に見える実害、目に見えない実害、
抽象で考えればあながち間違いだらけでは無いそれを、
汲み取れるから、見事なまでに、個としての人格を押さえ込まれている、
自立を目指した教育をしていないのに、なぜ自己責任の言葉が出る。
だから、子供のままの大人、
統制の取れた、酷く他人の目を気にし、
客観性の中の自分がハッキリした主観性を示したところで、合理と違うマジョリティに食われ続け、いつしか武器は、人の死のみ、
他者なのか、自者なのかの違い。
モラルやルールそして法は合理と不合理が混ざり合う。
分かりやすいのは、人の感情の根幹、根源の部分。他者を攻撃してはならないというのは合理と違うシーンが多々。
生産性を考えればこちらの方が有益なんてのはザラ。
自分が何をし、何のために、何になるための行動だとしたら、
モラルルール法では司ることが出来ない。
大義名分と言うやつ。
それは、自分のためと、人のためにある。だから、認められてこそ正当化される。
それこそすでに合理から離れるが、あなたも誰も、そんな迷惑ものには付き合いきれない。
だから、その中で不合理を噛み締め前進しながら、自分の価値を見出す。
本当の自分と、権力に屈する自分、
権力を振りかざす自分。
全ては自分。何処までも、個として、人でなく、パーソナリティ。
同じ志のモノのイデオロギーが完成し、拡大。
発生過程での不具合がジレンマとなり、貫くは己の意思。
様々な嫉妬、からの揶揄。
罰を丸と納める図太さがその器。
感化されたモラトリアムでは絶対にたどり着けない。
なぜなら、客観性にとらわれすぎ、情報と、五感によってがんじがらめの亀甲縛り。
視姦されるがまま、闘わずして快楽を与えられる、得られるという負け犬の発想になるがまま、惰性の余生を死んで生き返って死んで繰り返されるは諸行無常。
大衆への責任転嫁、総体感の中での個。そんなモノを武器にいつまで振りかざすつもりだ。
そんなモノは何の根拠にも成らんと先人達が叫び続けていたでは無いか。
必死に責任逃れの自己正当。
この道は続けることも出来、終わらせることも出来る。
ただ、そこに、後ろを見た時一体何が見える。
何も見えない。
マイノリティが残すことに特化出来、その差別が偏見が、プロパガンダによって正当化を見せる。
性悪説でない事を祈る。
マジョリティに革新が乏しい。
マイノリティに安定が乏しい。
守るモノが何か出来た時、
磔にされて動けなくなった誰ぞみたいな、
が、御業は成し得た。
粛々と、眈々と、何が残せるか、何が見えているか。
向こうに、人の笑顔。
抽象を手に。
ありがとう。
君を幸せにする。
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