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夏への渇き

最近、仕事帰りにヒトカラに行くことが多い。ヒトカラとはつまり・・・。そう、一人でカラッと歌いましょうやの略である。

梅雨が明確な終わりの合図を見せないまま、もう7月。空を不安げに見つめ、洗濯物を、干そうか干さまいか、いっそ何もかも放り投げて踊ってしまおうか。と、悩んでいる私たちを見てヤツらは楽しんでいるに違いない。

気温が30度を超える日が増えてきた。「夏ってこんなに暑かったか」と毎年思うが、まだまだこんなもんじゃない。むしろ夏の本気がこの程度なら、私は「もっと元気を出せ」と蝉に向かって、エールを送るだろう。蝉の声と夏の暑さは比例しているのだから。

こんな調子で夏が来たなと思ったのも束の間、先日、また空が泣いた。深夜のゲリラ豪雨である。見事に洗濯物を干していた私も泣いた。

それから汗と涙を流すようにシャワーを浴びた。両手を少しずつ左右に広げていく。勘のいい人ならお気づきだろう。そうショーシャンクの構えだ。

「タッタタラリラ」

段々と上機嫌になると歌を歌ったりする。私はしっかり夏に浮かれるタイプの人間なのだ。

緑。黒。赤。そう夏といえばあれしかない。種マシンガン。スイカの種を飛ばした分だけ、空が近くなった。でも手を伸ばすと、雲はどんどんと遠ざかっていった。

お気に入りの曲を歌いながら、私は自分の声のオーディエンスでもあった。歌い終わるとスタンディングオベーション。鳴り止まない歓声。私は少しずつ両手を左右に広げる。勘のいい人はもうお気づきだろう。そうこの構えは・・・。

突然、美女がそっと私の唇に人差し指を当ててきた。彼女の唇が音にならないメロディを奏でる。そこで幕が閉じる。鳴り止まない歓声。溢れ出る感性。モーガンフリーマンが私の肩に手を置き、優しく微笑んだ。

風呂場で歌を歌うと、自分があたかも歌ウマであると錯覚することが多々ある。ソプラノ歌手よろしくハイトーンボイスで難しい曲も難なく歌いこなす。

「風呂場でのあなたの歌声は素晴らしい。その歌唱力はどこで身につけられたのでしょうか」

インタビューアーが大きなマイクを私の口元に当ててきた。

「うーん。どこで身につけたか? この歌唱力は天性のものと言わざるを得ないね。そうだな、わかりやすく言うならば、頭の中でイメージするんだよ。気持ちよく歌えている自分の姿をね」

最後は私のドヤ顔のアップ。毛穴まで拡大。そこで映像が途切れる。

瞼をそっと開けると、電車の中、ガタンゴトンと揺れている。瞼をそっと開けるといってもなにもずっと閉じていたわけではない。ほんの数秒の話だ。

ああ、今日も仕事疲れたな。そんな日はあれだ。ヒトカラに行こう。

一人でカラッと歌いましょうや。

自分の十八番のナンバーを歌う。結構キーが高めの曲。イントロが始まった段階でソプラノ歌手を憑依させる。

しかし、歌い出しから声が掠れる。おかしい、風呂場ではあんなに歌ウマなのに。音程バーが赤く表示され、本来なら生まれるはずのない2本のバーが平行して生まれる。

マイオーディエンスは、サムズアップを逆さにして口をタコの形にしている。待ってくれ、帰らないでくれ、今日はたまたま調子が悪いだけなんだよ。

「風呂場では湿度で喉が安定して、おまけによく響く。だからこそ上手いと錯覚してしまう者が出てくるんだ。そうまるで君のようにね」

名俳優は諭すように言った。私は肩をすくめるしかなかった。

「タッタタラリラ」

さて、そろそろ洗濯物が乾いた頃合いだろうか。外に出ると相変わらず、不安定な空模様。家に着くまでの帰り道に願う。雨よ降らないでくれ。私の両手がゆっくりと左右に広がっていく。いかん、今このタイミングでこのポーズは。

案の定。ぽつりぽつりと落ちてくる水滴。また空は泣いた。これでしばらく洗濯物は乾かないだろう。でも私は笑う。ラムネ瓶を傾けて喉を潤す。そしてまた笑う。笑ってれば、なんだかわからないが楽しい夏がすぐそこにある気がするから。

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