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「人をジャガイモだと思え」の可能性

「観客のことをジャガイモだと思え」というのは、あくまで一対多の状況で、緊張をほぐすためにやむを得ず行うから一理あるのである。だから、一対一の状況で目前の人間をジャガイモにすることはない(と思う)。しかし、一対多より一対一の方が緊張して上手く振る舞えないという人はいると思うので、「ジャガイモ化」はそうした人を救う技術になり得るように思う。ただ自分は今までそうしたことをしてこなかった。人間をジャガイモだと思って扱うことが冷静に考えれば無礼であると気づいてしまうのか、はたまた目の前で自分とお喋りしている相手をジャガイモだと思い込む作業が大変なのか。
「人を人としてリスペクトしすぎて、思ったような振る舞いができない」ということはよくある。こんなことを言ったら気分を害してしまうのではないか。笑われるのではないか。こんなことを言ったら見当違いではないか、でも黙っていても変に思われてしまうのではないか、でも適当なことを言ったら「黙っていても変に思われるからとりあえずしゃべったな」と思われてもっと変な感じになるのではないか。難儀である。
こういういわゆるコミュ障みたいな人の対症療法として、目の前の人間をジャガイモだと思い込むという技術は使えたりしないのかしら。いつもなら遠慮がちになってしまうところで、ジャガイモ相手なら雑でOK!ということで強めに主張できるかもしれないし、ジャガイモ相手なら滑ってもOK!ということで適当なジョークもかませるかもしれない。
でも、仮にそれでうまく話せるようになったとしても、それはジャガイモを前に話すのが上手くなったか、人をジャガイモだと思い込むことが上手くなったかのどちらかであって、人と話すのが上手くなったわけではないことを忘れてはならない。

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