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図書館での出合い。山崎ナオコーラさんの「かわいい夫」を読んで。
「かわいい…夫?」
なんとなくチグハグ感のある題名に惹かれて手に取ったのは、山崎ナオコーラさんのエッセイ集「かわいい夫」。
ナオコーラさんの存在は知っていた。
新聞の書評や本の紹介コーナーに時々出てくる作家さんで、読みたいなと思っていた本や、読んでみたいなと思わせる本を紹介してくれる。なぜだか惹かれる作家さんだった。
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このタイミングでこの本を手に取ったのは、絶賛、私がパートナーシップについて考えている時期だからだと思う。
ナオコーラさんの夫に対するスタンスや想い、行動に、特別多くの共通点があったわけではない。それでも、なるほど…と感じさせるエピソードや、取り入れたい考え方があった。
今日はそれを紹介したいと思う。
仕事観
仕事というのは誰かのためにするものではない気がする。結婚当初、「私が大黒柱だから、これからはもっと稼ごう」と思った。しかし、そうすると上手く書けなくなった。やはり、夫や子どものために仕事をしてはいけないのだ。自分が社会参加したいからやる。その結果、お金をもらえて家族で暮らせるのはありがたい。でも、養うことを目的に仕事をするというのは本末転倒だ。
私の家庭での経済的なポジションは、大黒柱ではない。夫がそのほとんどを担っている。それでも今自分がやっている仕事に、誇りを持っている。それは社会につながっている、誰かの役に立っている感覚が確かにあるからだ。そしてそのつながりは、大袈裟に言えば、自分が生きていく理由にもなっている気がする。
というのも、以前は子どもに「○○なお母さん像を見せたい」という想いが強かった。例えば、「上の息子が中学生になるまでに、『お母さんは書く仕事をしている』って言えるように頑張ろう!」みたいな想い。それは別に悪いことではないのだけれど、書く仕事をしたいのは私であって、それを見てどう思うかは息子次第。だから他人の想いにモチベーションを持つのは良くないなと思ったのだった。
その答えを端的に表してくれたこの文章に出合って、ああ、そうだよねと、さらにしっくりきている。
穴は埋めなくていい
誰かによって空けられた穴が、他の誰かによって埋められることはない。どの家族だって減ったり増えたりするが、減った人の代わりを誰かが務めることはできない。新しい人が増えるだけだ。穴は永遠に空いたままだ。この穴を大事に抱えていこう。
家族が減るのは悲しい。家族が増えるのは嬉しい。でも減った後に増えたからといって、その穴を埋めることはできないって、確かにそう思う。
義理の祖母が亡くなった3ヶ月ほど前に、上の子の妊娠がわかった10年前。そのとき義母は「おばあちゃんが来てくれたのかもね」と夫に言ったところ、夫は「そういう考えは好きじゃない」と答えていた。私は何も言えなかったのだけど、そういう風に考えている夫を内心、好ましく思った。おばあちゃんとお腹の中の子は別々だよねって、私も思っていたから。
穴はふさがらない。だから大人になるにつれて、私たちは穴だらけになる。でもその分、新しいコブみたいなものができる。凹凸な自分を私も大事にしたいなって思う。
本屋と結婚
電子書籍やネット書店では、おすすめ情報を得たり、ランキングやレビューを参考にしたりして、「これが欲しい」と決めたものをピンポイントで購入することが多い。
対して、リアル書店では、ふらりと店に入って、ぶらぶらしていたら目についたものに、なんとなく手を伸ばす。
世の中にはもっといい本がある。それでも、私は偶然手にしたこの本を読む。
これは、「たまたま側にいる人を愛す」ということに似ていると思う。
私は昔、結婚というのは、自分にぴったりの、世界で唯一の人を探し出してするものだと思っていた、
しかし、今はそうは思わない。たまたま側にいる人を、自分がどこまで愛せるかだ。
夫が世界一自分に合う人がどうかなんてどうでもいい。ただ、側にいてくれる人を愛し抜きたいだけだ。
「結婚」って、改めて考えてみるとすごい制度だよなって思う。だって、赤の他人と「(その時点では)一生涯を共にします」と宣言するのだから。
できれば自分にぴったりの人をパートナーに選びたいと思うけれど、人は変わっていくものだから、例えその時点でぴったりだったとしても、途中で「あれ?」ってズレてくることはある。もちろんその逆も然り。
私は自分の夫のことが大好きだし、今もその「好き」の総量は変わっていないけど、「好き」の表現の仕方は、年齢を重ね、家族が増えていくに従って変化しつつある。環境の変化に気持ちが追いついていなくて、寂しい感情があるからこそ、これからどうするのがお互いにとって心地よいのか考える時期にきている。
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図書館に行って、たまたまナオコーラさんの著書を手にして、この文章が印象に残って、こうして感想を書いているのは、うまく言えないけれど、自分の側に居てくれる人を愛する行為と地続きになっている気がして、ひとりニヤリとしてしまう。
観察と責任
ここ数年の間に、私が書く本は売れなくなり、書評が出たり評価されたりといったことも無くなってしまった。出版を「恥ずかしい」と感じるようになった。本を出せば、急激な右肩下がりの自分の現状があからさまになる。出版社をがっかりさせることにもなる。昔はあんなに楽しかった出版の作業が、いつしか怖いだけのものになっていた。
だが、最近、ふっきれた。
「少部数の本だって、多様性の肯定のために世の中に必要だ」
と夫が言って、納得した。たくさん売れなくても、評価されなくてもかまわない。
とにかく、いい本だと自分が思える本を、責任を持って出す。販促活動は、無理せず、自分らしい方法のみでやる。そして、文学シーン全体を盛り上げたり、他の本を応援したり、文学史をみつめたりする活動を並行してやる。
作家の仕事は「自分のほんをたくさん売る」ということだけではない。ソーダ書房で、作家の仕事の可能性を追求していきたい。
こんな風に自分の現状を素直に描ける人っているのだろうか。自分の仕事がうまくいっていないと人に伝えるのは、勇気がいる。作家さんであっても、違う職業であってもだ。本を読み進めながら、なんて嘘がない人なんだろうと思った。
私は「作家さん=本を出す人」という乏しいイメージしか持ち合わせていないので、作家という職業の人たちがどんな風に暮らしているのか想像ができない。だけど本を出せる力量を持っている時点で、無条件で憧れてしまう存在だし、自分の脳内で考えていることや感じていることをこちら側にも同じように見せてくれる人たちに、心から尊敬の念を抱いてしまう。
このエッセイ本が出版されたのは2015年なので、今から8年前。ナオコーラさんの本、売れたらいいなぁと思っていたら、2023年9月23日の北陸中日新聞の書評の欄に評者としてナオコーラさんが載っており、「作家。『ミライの源氏物語』がBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞しました」と紹介されていた。
それを見て「あぁ、よかったぁ」と勝手に嬉しくなってしまった。
きっと、その時、その時点での自分の状況・状態を観察し、覚悟と責任を持って進まれてきたんだろうなって思う。覚悟も責任も自分で持つしかないから、本当にすごいことだと思う。
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その書評欄で紹介していた「異世界のうっとり感を味わえる」3冊のうちの1つ、江國香織さんの「シェニール織とか黄肉のメロンとか」が気になったので、これもまた読んでみようと思っている。
ナオコーラさんと出身地が同じで、母親の出身地も同じなので、勝手に親近感を覚えている作家さん。いつか会えたら嬉しい。
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