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アートをデザインにすり替える人たち(1199字)

最近Twitter(X)のタイムラインに”解剖した人体を模した醤油皿”のツイートが流れてくる。たくさんの賛否が集まっているようである。

私はこれを作品・芸術とすることには賛成である。
むしろ、これを芸術でないと否定する人が現れたということに究極の令和的価値観の始まりすら感じている。
そして、その反応から「アートをデザインにすり替えている人」が増えているのかもしれないと思った。

アートとデザインについては、↓の記事で持論を語ったりしている。

SNSでの投稿とは基本自分の考えや作品を自由に不特定多数に発信するプラットフォームであり、特定の人のために届けるツールではない。これは、当たり前の前提だと思う。
すなわち、投稿主とそれを見たユーザーに双方向の認識はない。ユーザーの一方的な認識に過ぎない。見たユーザーがいくら不快感を感じようと、作者はそのユーザーに向けて作っている訳ではない。

しかし、そのアートを「自分にとって不快だから」という理由で存在ごと否定する。誰もあなたのために作ってはいないのに。

しかも性格の悪いのは、引用ツイートすることで本人の目に届かせてしまうところ。その感想は本当に伝える必要があるだろうか。

この作品が個人の創作の範疇内である限り、ユーザーは消費者ではない。乱暴に消費し値踏みする権利は本来ないはずである。
そして、デザインはクライアントがいてはじめて成立するが、アートにクライアントは要らない。もっとこうしてほしいとか、これを芸術だとは認めたくないだとか、そんな注文を受ける義務はないのである。

誰もが簡単に・自分の意志に関わらずとも、個人の創作に触れることができるようになり、直接本人に感想・意見を言うことができ、その意見に意見することもできるようになった昨今、まるでクライアントのような目で作品を眺める人が増えたのかもしれない。
自分にとってより素敵に感じる作品、自分の美的感覚に合う作品、それらを肯定する一方でそれ以外を排他的に見る。評価し注文を述べる立場に立つ。
みんな違ってみんな良い、百人百様の価値観があるのだから、とアートとして受け流せる人が減ったのかもしれない。

極めて現代的でありながら、悲しい話である。

他にも、もはや現代の芸術は全てのひとに不快感を与えない作品こそ求められているのかもしれない、なんていう皮肉めいた意見を言う人もいた。

アートにおいて大衆にウケるかどうかとか、一般的に受け入れやすいかとかが全てではない。自己表現なのだから。
作品を通じて他人の嗜好性を知り、時に共感し時に理解できず、それでも表現者一人一人は自由に作り続ける。分かり合えた者同士がそこに集まる。それが方々で生まれ続け、アートは成立している。
自由で開放的な概念でありながら、そのプラットフォームは時に閉鎖的。

アートの楽しみ方は人それぞれとはいえど、根本的なところを見失わず楽しみたいものだと思う。

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