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太極拳に学ぶ身体操作の知恵 ~第七訣・第八訣~

第七訣 上下相随(じょうげそうずい)

なめらかに動く
ー全身協調の体動を身につけよ!ー

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《 第七訣 》 上下相随(上下は相随う)
 上下相随とはすなわち太極論に「その根は脚(足首から先の「あし」)にあり、腿(足首から上の「あし」)に発し、腰に主宰され、手指に形われる。すべて完全な一気によるべきである」という、これである。
 手が動けば足が動き、腰が動く。眼神(め)もまたこれに随って動く。このようにして初めて上下相随ということができる。もしひとつでも動かなければすなわち散り乱れるのである。

 この場合の上下とは上体と下体という身体の部分を意味しています。上体と下体を協調させ、全身のなめらかな動きで技を発するべきであると教えているわけです。

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 金鶏独立の場合はその場で上・下段に変化する体動です。上・下体の協調はもちろん必須の要件ですが、水平移動に慣れた後で行うべき一種の応用練習といえるかもしれません。
 基本的な水平移動による歩法訓練のほうが固定した位置で繰り返す金鶏独立よりも、移動の歩法が加わることによって、より基本的な身のこなしが練習できるからです。


《最も基本的で、いかにも中国武術的な特色のある三つの歩法》

♦八卦掌の「走転」は挙法的禅行

 型の演武線は太極拳が横一直線に動く。これとまったく対照的に形意拳は縦一直線であり、そして八卦掌はひたすら円線上を走転します。
 八卦掌の走転は「走」といっても走るわけではない。「走」とは中国語で歩くことです。「走転しつつ円上で練ること」を単に「走圏」ともいう。

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八卦掌の走転とは単純ながらも動中に静を求め、静中に動を練る拳法的禅行であるといえる。


♦形意拳の「崩拳」は挙法ジョギングだ

 「崩拳」とは直突きのことです。

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 例えば右手で突く場合、前側の左足を半歩踏み込んで右拳を突き出す。次の瞬間には後ろ足を半歩引き寄せている。この両足とも寄り足で進むのが形意拳の特徴です。
 私の体験的感覚で言えば、崩拳で突くときは八卦掌の走転と同じくやはり後ろ足がカギになります。前足で地を踏んだ時に突くと、実際には突きが遅れている。地を蹴る力を利用し、後ろ足で突くつもりで突き腕を出すと、かえって手足が一致している。つまり上下相随となる。


♦太極の「雲手」は行雲流水のごとし

 雲手は蟹の横歩きのように、からだを正面に向けたまま両手を旋回させつつ横一直線上を移動する太極独特の体動です。

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 太極拳の雲手は、武術的には受けであり体裁きですが、楊派の場合はむしろ上・下体の柔らかな協調を養い、なめらかな体動を練る歩法練磨としてとらえるほうがいいでしょう。            
 「行雲流水(こううんりゅうすい)」という言葉があります。詩的に美しく、禅的な趣もある。まさにこの4文字がそのまま雲手の挙訣となる。

 

第八訣 内外相合

神気で身心統一する
ー内なる自分の力に目覚めよ!ー

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 第八訣は「内外相合」、内と外は相合する、です。
 第七訣「上下相随」は手足をバラバラに使うのではなく、手の指先から足先までからだをひとつに合して動けという教えでした。第八訣はそこからさらに一歩進めて、からだの内と外をひとつに合して練るべきであると説く。

《 第八訣 》 内外相合(内と外は相合する)
 太極拳で練るところは神(しん)に在る。そこで「神は主帥(最高司令官)であり、身は駆使されるものである」と言う。精神をよく立ち上げることができれば自然に挙動は軽霊(かろやか)となり、架子(技・型)は虚実、開合から外れることがない。
 いわゆる「開」とは、単に手足を開くだけではない。心意もまたこれとともに開くべきである。いわゆる「合」とは、単に手足を合するだけではない。心意もまたこれとともに合するべきである。
 よく内外を合して一気と為せば、すなわち渾然として無間(隙間無き状態)となる。

 無間とは無の間、無という隙間です。いかなるものも付け入ることができない完全無欠の間。しかしそれはあくまで間であるから、ひとたび気が働けば無限大に広がる。そういう間です。

♦︎ 『中庸』の極意文

 形意門先人の最後に掲げられた許占ごうの語録にも『中庸』の言葉がそのまま引かれています。許占ごうは書と拳法を愛した文武両道の人です。
 

 俗語には「拳中の内勁を練れば下腹を打たせるも石のように堅い」などという。だが、これは真実ではない。形意拳の内勁は人の元神と元気が相合して、偏ることなく、和して流れず、過ぎることも及ばざることもなく、無から有へ、微から著に、小から大となる。一気の動が発して全身を生き生きとめぐり、物も時もすべてがその適正を得るのである。
 『中庸』という、「これを放てば則ち六合に弥り、これを巻けば則ち密に退蔵す」と。その意味するとことは、窮まりがない。これはみな拳の内勁である。
 よく修練する者は少しばかりの手がかりからいったん会得するならば、終身これを用いても尽きることがない。

  

♦︎ 神(しん)とは何か

 内家拳的な立場で言えば、武術的エネルギーは、意、気、力の3段階で発揮される。意とは意念、心の思いです。心が動いて意となり、意が強まって気というエネルギーになる。気は内的ではあるけれども既に動的なエネルギーです。これが技と共に外側に発露されたものが力です。

 神とはこの全過程にまたがって働いている、目には見えない根源的なエネルギーであるということができるのではないでしょうか。
 神と気を比較すれば、神は根源的で静的な先天的エネルギーであり、気は人為的で動的な後天的エネルギーであると理解することもできます。

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 現実には、人によって神の一字に気を含めることもあるし、その反対に気の一字に神を含めることもあり、あるいは神と気を合わせて神気ということもあるわけです。


【 感想 】
ティク・ナット・ハンの般若心経を読み始めたのだが、そこにも『中庸』という言葉が出てくる。
「バランスの取れた状態である」とはシンプルであるが故にむずかしい。
意識すればするほど偏りは大きくなるし、意識しなければしないで偏りが小さくなることはない。

どちらに偏っているかを知っていること。
今どれくらいの偏りになっているか、
バランスを崩さずにいられる範囲はどれくらいか知っていること。
そんなことが大切なのではないだろうか。
安全の範囲内で揺らぎ続けること。
バランスをとるには微調整は必要で、だからこそ揺らぎを止める必要はなくて、むしろバランスをとるために揺らぎ続けたらいいんだと思う。
そうしているうちに、小さな揺らぎでバランスがとれるようになっていくのではないだろうか。


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