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太極拳に学ぶ身体操作の知恵 ~第五訣・第六訣~

第五訣 沈肩墜肘(ちんけんついちゅう)

肩は柔らかく開き下方に垂らす
ー手は波動の動きー

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♦手技の基本要訣

第五訣は腕の使い方に関する基本要訣です。

《 第五訣 》 沈肩墜肘(肩を沈め肘を落とす)
 沈肩とは肩を柔らかく開き下方に垂らすことである。もし柔らかく垂らすことができなければ両肩が上がる。そうすると気もまた随って上がり、全身各部の力を使うことができない。
 墜肘とは肘を下方に柔らかく落とすという意味である。肘が上がっていると肩を沈めることができない。ゆえに、人を遠くに放つ(推し飛ばす)ことができず、外家拳の断勁(力が途切れること)と同様になる。

「意と気力を通じさせて技を効果的に発するためには、肩を沈め肘を落として、全体の力を統一的に使うことが大切である」
「外家拳の断勁と同様になる」とは、力まかせに突く拳法と同様、気力が貫徹しない技になるという意味です。


♦心の沈肩墜肘

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 沈肩墜肘は決して拳法に留まるものではありません。
 含胸抜背の要訣が気沈丹田と一体のものであったように、沈肩墜肘もまた気沈丹田と一体のものとして理解すべきでしょう。

 日常生活においてはまず「心の沈肩墜肘」が必要です。
緊張や疲労で肩に力が入り、そのまま固まってくると首筋が硬くなる。そうするとからだ全体に不快感がひろがる。首と頭は直結していますから思考力も衰えてくる。文字通り首が回らなくなり、「固いアタマ」になってきます。

 肩が上がった状態を拳法では「寒肩(かんけん)」という。いわば「沈肩」の反対語です。寒い時には両肩をすくめて身を縮めるかっこうになる。おそらくそこからきた表現でしょう。

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撫で肩は心の沈肩墜肘が外に現れたものということもできるでしょう。


第六訣 用意不用力(よういふようりき)

意を用いて力を用いず
ー良質の力を求めよー

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♦用意不用力

第六訣は「意を用いて力を用いず」という意味です。

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 例えば前蹴りの場合を考えてみましょう。
片足で立ち、ゆっくりと前方に足を上げていく。これがなかなか難しい。
 足はひとつの重量物です。足の先端まで意念を通し、その重量物をゆっくり持ち上げる。力は当然入っているのです。
 しかし最小限の力を使うのであり、力んではならない。そのためには、からだ全体の柔らかさが必要です。

「意を用いる」とはまさに自分のからだと対話することから始まるのです。


♦武術は拳法を上達させる

 武器術と拳法には修練上、相互に好影響を及ぼす相関関係がある。明代、倭寇と戦った勇将戚継光(せきけいこう)は、
「拳法は武器術の基本だ。基礎体力と身法を練るのによい」
として各流の得意技を集めて新たな拳法を創編し、軍隊の訓練に導入したほどです。

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 不自然な動きでは使いこなすことができず、武器に振り回されることになる。練習もすぐに疲れてしまう。そこで安全で効率的な動きをからだが自発的に求めていくのです。
 武器術の後で拳法を練ると、動きが楽になる。無駄な力が抜けて「意を用いて」技を使うことができるようになります。たとえ拳法で不自然な体癖がついていたとしても武器術を練習していると、それが次第に修正されていきます。


♦発勁 -良質な力を求めよ

 発勁とは、技法的に解けば、最小の力で最大の効果を発揮するような良質の力を発するということであり、その実体はバネ力です。バネのように柔らかく力を蓄え、己の実を以て相手の虚に集中的に発することです。それはまた梃子の原理を活かすことでもあります。太極拳では「四両の軽きも千斤の重きを撥く」という言葉を大切にしています。(もとは古来からのことわざだったようです)

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 『太極拳経』とともに重視される『十三勢行功心解』のなかに発勁の本質をズバリと解いたような次のような言葉があります。
 「蓄勁は弓は弓を開くがごとく、発勁は矢を放つがごとし。曲中に直を求め、蓄えてのち発す」
 
これを受けて陳炎林は前掲書において発勁論を含む詳細な「勁論」展開しました。そのなかでも力と勁(ちから)を対比させた次の一文が有名です。

力は骨により、肩背に陥没して発することができない。
勁は筋により、よく発して四肢に達することができる。
力は有形であり、勁は無形である。
力は方であり、勁は円である。
力は滞り、勁はのびやかである。
力は遅く、勁は速い。
力は散じ、勁は集まる。
力は浮き、勁は沈む。
力は鈍く、勁は鋭い。


♦用意不用力

第六訣の解説は全十訣のなかで最も長い。

《 第六訣 》用意不用力(意を用いて力を用いず)
 「太極拳論」にいう、「すべて意を用いて力を用いないということである」と。太極拳を練るには拙勁(拙い力)が筋骨血脈のあいだに少しでも停滞して自らを束縛することのないようにすべきである。そうすれば軽やかに変化して身の円転が自在になる。
 あるいは疑うかもしれない、「力を用いないでどうして長ずることができようか」と。
 そもそも人身には経絡がある。これは地に溝があるようなものだ。溝を塞がなければ水が流れるように、経絡を閉ざさなければ気が通じるのである。
 もしきょう勁(こわばった力)が全身の経絡に充満すると、気血は停滞し、転動が不自由になり、髪の毛一本引かれただけで全身が動き崩れてしまう。
 もし力を用いず意を用いれば、意の至るところすなわち気が至る。このようにして気血を日々、全身にめぐらせ、停滞することがないようにして練習を久しく続けていけば、必ず真正の内頸(内側から発する強い力)を得るのである。
 すなわち「太極拳論」にいう、「柔軟を極めて然るのちによく堅剛を極める」である。
 太極の修練に熟した人は、その腕などはあたかも鉄を包み込んだように、重みが極めて沈下している。
 外家拳(力まかせの拳法)を練ったものが力を用いるときには、力のあることが顕わになる。そして力を用いないときには、はなはだ浮ついている。
 これで分かろう、その力はすなわち外勁(外側だけの力)であり、表面的な浮ついた勁であることが。外家の力は引き動かす最も簡単である。ゆえに貴ぶべきものではない。

※注 : 「太極拳論」とは『太極拳経』『十三勢行功心解』等の訣文を総合的にいう。

 何事においても「力」は重要な要素です。ただ、その良質の力を求めるということが大切なのです。「力を用いず」とは、拙勁や外勁に陥らないよう「無駄な力は用いない」ということ。そして、「意を用いる」とは良質な力を求めるためには「意・気を先行させよ」、そうすれば内側から発する強い力を得ることができるという意味です。


《 感想 》
怒りっぽい人を何人か想像してみると、どの人のイメージも怒り肩をしていて、おもしろくなってしまった。
怒っているときには、首が回らなくなり「固いアタマ」の状態だから、視野が狭くなり気が頭に上がってしまう。
このとき不思議に思うのは、怒っている人は相手も怒り肩になっていることを求めるということだ。
怒られている相手が落ち着いた状態、撫で肩の状態だと、より頭を沸騰させ、さらに怒り出すように思う。
怒っている人の目的は円滑な意思の疎通ではなく、自分の考えに従わせること、服従させることなのだろうか。
怒られているときの態度でさらに怒らが発生する人は、あえて首をすくめて擬似的に怒り肩にするのも効果的なのかもしれない笑

「怒ると疲れる」自分自身その体験はたくさんしているし、よく聞く言葉でもある。
「気持ちを落ち着かせるは、フィジカルだ」そう言われたことを思い出す。
自分の気が今からだのどの部分にきているのかを確認してみる。
気持ちが上ずっているとき、気が胸のあたりにあることが多い。
ゆっくり気を下ろしていくと、おへその下あたり(丹田)で安定感が出て、それと共に肩も自然に下がっていく。
それを知っていても、日常のなかで意識し続けることは難しいと感じる。
いつの間にか忘れてしまい、はっと我に返る。
必要なときに力(頸)が活かせるように、怒りに力を使わず少しずつでも気の流れを滞る時間を減らしていきたい。


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