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太極拳に学ぶ身体操作の知恵 ~第九訣・第十訣~

第九訣 相連不断(そうれんふだん)

水に学ぶ
ー動きは長江大河のごとく!ー

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♦滔々として絶えず

 第九訣は「相連不断」、相連なって絶えず、です。
 「不断」は「たたず」と読むのも正解ですが、太極拳では後述の訣文のように「滔々不絶(とうとうふぜつ=滔々として絶えず)と一体化して用いられることが多いので、ここでも「たえず」と読むことにしましょう。

《 第九訣 》 相連不断(相連なって絶えず)
 外家拳術の勁とは後天の拙勁である。ゆえに起があり止がある。断があり続がある。旧力がすでに尽きて新力が未だに生じていない時、この時が最も人に乗じられやすい。
 太極拳は意を用いて力を用いず、初めから終わりまで綿々として断えることがない。周(まわ)りては始めに復(かえ)り、その循環に窮まりがないのである。
 「太極拳論」にいう、いわゆる「長江大河のごとく滔々として絶えず」である。また「運勁は糸を抽(ひ)くがごとし」ともいう。これはみな一気によって貫くことをいうのである。

 冒頭の「外家拳術」は特定門派を意味するのではなく、「内側から発する意念の力を重んじることなく、筋肉・骨格だけの力に頼るような拳法」という意味に解したいと思います。内家拳を名乗っていても実質的にはこういう拳法に陥っていることがあるからです。


♦積水を決するがごとく

 中国で「江」といえば長江、「河」といえば黄河を意味します。「長江大河のごとく滔々して絶えず」とは太極拳の型を始めから終わりまで演武する時の体動の要訣としてよく使われる例えです。

 古代の兵書『孫子』には思想的には『老子』と密接に関係する、いわば老子的な軍事書ですが、そこにも水が重要な例えとして語られています。

 水が激流となって石も漂わす、これが『勢』(勢いで圧倒する量的な力)である。
 鷹や隼が一挙に襲って骨をくじき翼を折る、これが『節』(瞬時に集中して決める質的な力)である。
 ゆえに善く戦う者は、その勢いは険しく、その節は短い。勢は機械仕掛けの弓を張るがごとく、節はその引き金を引いて発するがごとしである。
(兵勢篇)

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♦「水五則」 ー人生に活きる水の教えー

 水の例えは兵法や武技だけでなく、日常にも活きるものです。

 「天下の柔弱は水に過ぐるはなし。しかして堅強を攻むる者のこれによく勝れるものなし。その似てよくこれより易きはなし。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは天下知らざることなく、よく行うことなし」
 河上公は分かりやすく説得力のある例えによって、次のように注解しています。

 水は円中にあっては円、方中(四角形)にあっては方となる。塞げば止まり、決すれば行く。
 水はよく山陵を破壊し銅鉄を摩滅する。水に勝って功を成すものはない。堅強を攻めるのに水よりも易しいものはないのである。
 水はよく火を滅し、陰はよく陽を消す。舌は柔、歯は剛であるが、歯は舌に先んじて滅ぶ。ここに知る、柔弱なものは長久となり、剛強な者は途中でくじき敗れるということを。


第十訣 動中求静(どうちゅうきゅうせい)

動中の静こそ真の静
ー静よく動を制す!ー

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♦静かなるは躁がしき君たり

 『老子』第26章を河上公は「重徳」と題しています。「重きが徳の本である」という意味です。
 この場合の「重き」とは鈍重のことではありません。荘重、慎重のことであり、重心を保って軽はずみに動かないこと。それが国を保ち身を治める本であるという意味です。

老子はこう説いています。
 「君主というものは、平時にあってはたとえ豪華な宮殿があっても別棟の私室に閉居して超然としていなければならない。戦場にあってはし重車(軍需輸送車いわば移動司令部)から終日離れてはならない」

 人君は重くなければ尊ばれない。身を治めるにも重くなければ神を失う。草木の花や葉は軽いため零落する。根は重いために長く存するのである。
 人君は静かでなければ権威を失う。身を治めるにも静かでなければ身を危うくする。龍は静かであるからこそよく変化し、虎は躁がしいために若死するのである。


♦動といえどもなお静なるがごとし

いよいよ「十訣」探求の旅も最後の門に辿りつきました。
第十訣は「動中求静」、動中に静を求めよという教えであり、「静」と「慢(緩慢)」がテーマです。

《 第十訣 》 動中求静(動中に静を求める)
 外家拳術は飛び跳ねることを得意とし、気力を尽くす。ゆえに、みな息切れしている。 
 太極拳は静によって動を御す。動といえども静なるがごとしである。ゆえに架子(型)を練るときは緩慢(原文「慢」)であればあるほどよい。緩慢に練れば呼吸が深長になり、気は丹田に沈む。血脈が急激に膨張するような弊害はおのずからなくなる。
 学ぶ者が心をくだいて修練し、その意を会得できるよう願うのみである。 

  慢によって動が静的にとらえられる。準備姿勢から一挙に決め動作にいくのではなく、力の起こりから到着点までどういう過程を辿っているかを確認する。言い換えれば、1から一挙に10へと「躁疾」に至るのではなく、1のさらに前段階0から1,2,3……とすべてのプロセスを一つひとつ踏みしめて10に達することです。

 0は無であり、1から有となってその後に展開されるすべての静的な動きの根源となる「大いなる静」です。
少しでも無駄な部分があれば、それを省いて動きを洗練化することができます。
 慢連は意念の力を重視し、動きをからだの内側から練り上げる。わたしの実感として言えば、「内臓から汗をかく」ような気がします。ゆっくりと動くことによって小さな筋肉から大きな筋肉へと順序立てて練り上げていく。筋力に「油圧式」の粘りと連動性がついてきます。

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 太極拳を気功的身心修養法として練る人にとっては、武術的に考えることはむしろ次元を低くし、修練の妨げとなることがあります。

では、身心修養法として練る立場にとって快練はないのか。

 こういう人々にとっては日常生活がそのまま快練です。 
 端的に言えば、ともすれ慌ただしく過ぎる時間をひと時の太極拳によってスローダウンさせ、心身共に己のバランスを回復する。それが次への活力、すなわち新たな快の力を蓄えることになります。昨日慌てて巧くできなかったことが今日は主体性を保って巧くできたとすれば、それが「静をよく動を制す」の発露となっているのです。
 
こうして練り上げていくと、やがて「慢といえども快」(ゆっくり見えていても無駄がなく質的に速い)、「動といえども静」(速く動いていても主体性を保ちバランスを失わない)という「快慢相済(かいまんそうせい)」、「動静一体」の力が身についてきます。

 

♦「十訣」のまとめ

 「十訣」は頭頂の勁から始まって手足の要領に降り、さらに全身的な運用を説き、最後は「静」で締めています。明らかに順序立っています。試しにキーワードを並べると、次のように簡潔でスムーズな一文になります。

首すっきり……………………(第1訣)
胸柔らかに腰ゆるめ…………(第2,3訣)
手足の虚実明らかに…………(第4訣)
肩は沈めて力用いず…………(第5,6訣)
上下整え内外合わせ…………(第7,8訣)
動き連ねてなお静を求めよ…(第9,10訣)

これまで理解した内容を思い出しながら、充分に味わってみてください。
きっと「10の言葉」があなたのカラダを拓き、秘められたチカラを開花させるでしょう。


【 感想 】
ここまで読んできてわたしはまだ理解できたとは言えないでいる。
全体像が薄ぼんやりと見えてきたに過ぎない。

自宅で洗濯物を干すときにはいつも音楽をかける。
それから踊りながら干すのだけれど、そのときには身体の動きを感じながら踊る。
文字にすると怪しい感じだし、実際に見ても怪しい感じにしか見えないのかもしれない。
でも自分にとっては気持ちも身体ものびのびとできて好きな時間なのだ。
たまに踊るのに集中しすぎて干すことを忘れてしまうほどに。

太極拳の練習のときには自分の腕などの身体の重みを十分に動きに利用できていない気がする。
動きが細切れになってしまったりするため、力で動かしてしまうことも多々ある。

この十訣を太極拳に活かすには日常の動きでどれだけ取り入れて練習できるかなのだろう。
家の外に出ると気が外に向きやすい。
それをいかに内側に丹田にとどめておけるか。
また、せかせかしてしまうときにいかにゆったりと動けるか。
そして余分な動きをみつけられるか。
それをどれだけ削ぎ落としていけるのか。

どうしても自分は気持ちが揺れやすい。
周りの人の感情に反応しやすい。
そんなときこそ十訣の練習に適しているのかもしれない。
気持ちが不安定なときこそ変化させるチャンスだと思えば、楽しみな時間へと自分のなかのイメージも変えられるかもしれない。
とりあえずやっていこう。
まずはそこからだ。


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