それってほんと?
人間はこじつけたがる生き物だ。
今朝 「いってきまーす」とだるそうに家を出た長男が、イライラしながら戻ってきた。
どうやら忘れ物をしたらしい。
それがうまくランドセルに収まらなくて、ついでにプリントが破れたりしたものだからとうとう噴火して大怒り。
そんなときは「イライラしているんだね」とだけ言って、あまり声はかけないようにする。
親の助言なんて火に油を注いでるようなもんで、聞く耳持たない時にするのは逆効果なのだと、何度もやらかして体験から学んだからだ。
そんな場面に出会すときに思うのは、怒っているときは何かのせいにしたくなるということだ。
「その物や出来事、人のせいで自分は怒らなければならなかった」
それは本当にそうなのだろうか?
今朝の長男のことで言えば、土曜日の少年野球の試合、昨日の丸一日かけて行われた校外学習、そして風邪気味などにより体力的にも気力的にも不足気味であったからではないかと思うのだ。
イライラすると何かにやつあたりしたくなる。
それが原っぱに自分ひとりの時にでもやつあたりする気持ちは湧くのだろうか。
石ころと自分しか存在しなかったら、石にやつあたりするのだろうか。
子ねこと自分しかいない時に、子ねこにやつあたりするのだろうか。
頭にきたから仕方がないと言うけれど、たしかに頭にきたのは仕方がない。
湧いた感情は良いも悪いもないし仕方がない。
ただ、それをどのように消化するのかは選べるのではないだろうか。
それをガミガミと子どもを叱りつけることは簡単だ。
「正しい答えはこれだ」と言い放つことは簡単だ。
自分もストレス発散になるし、場を制し気分良くなった気がするのも事実だ。
でも、それじゃ伝わらないのだと、これも失敗から学んだ。
長男も誰かを傷つけて心底後悔して、そこから学んでいくのだろうか。
それとも、誰かの言葉にハッとして気づいていくのだろうか。
「答えを乞うか、自分で見つけるか」
いくら答えを聞かされても、自分でその問題を解いてみないとわかったことにならないように、やはり経験しないとわからないものだ。
それに答えを先に知ってしまったら、問題を解くおもしろさはなくなってしまうのでは、そんな気がする。
正解がつづけばいい人生か?
自分が「いい人生だ」と認識できなければ、周りがいくら「いい人生だ」と言ってもそれは変わることがないだろうし、反対に周りには不幸に見えていても、本人には幸せだということもある。
「けっきょく全てはこじつけでしかない」
今回あれやこれやと書いてきたけれど、これもこじつけに過ぎない。
自分で決断し選び取ったと思っていたことも、実際は脳に蓄積された経験などの情報により、今の最適解がはじき出されて認知する間も無く行動しているに過ぎない。
できることはシンプルなんだと思う。
ただ「気づく」ということだけ。
脳のバクによって誤った認識になっている部分に気づき、認識し直すだけ。
死ぬわけじゃないのに、無性に恐れてしまうこと。
それらは脳のバグなのだ。
今、安全なのに安全じゃないと感じること。
すでに幸せなのに不幸だと感じること。
「それはほんと?」
時々、そう自分に問いかけてみてほしい。
複雑にしているだけで、実はシンプルなのだ。
今日もあなたが心の安らぎと幸福感を感じられますように♪
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