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未来より過去の方が多くなったことに気づいた話

毎月、なぜかインタビューして写真撮って記事にする仕事がやってくる。ただ、楽しい話をするのではなく、仕事として向き合い聴き込むのは一種の緊張感ももちつつ互いに深掘り深ぼられて開放されたものをカタチにしていく作業なので時間を忘れて没頭してしまう。

今日はロッカーを片付けようと思ったら早々に過去の記事を見つけてしまって、片付けそっちのけで読みはじめてしまった。若い頃は勢いある、ある。ここまで面白く書いたぞ的な。

ある時から、あれっ、よく書けてるっと思えるように。文章とかレイアウトが上手くなったのではなく。この違和感は何だろうと思いながら読んでると、誰かのために書いてるということに気づいた。記事なのだから読者のためになんだけど、読んでると名前は思い出せないけど人の顔が頭に浮かんできて、記事を読んで微笑んでいるような。

自分ではない誰かのために書いている。

いまの今までそんなことは意識したことがなかっただけに、そのターニングポイントを知りたくなって発効日を見ると、なぜかその時の年齢は記憶にずっと残っている父親の年齢になった年だと直感的に気づいた。

私だけかもしれないが、ある年齢で親の年齢がとまってることってない?きっと幼い頃から「パパ、何歳?」って聞いていたと思うけど、ある時点での年齢で一時期ずっととまっていた父の年齢。それは自分が自立したと感じる思春期で、親子から対等な人間に成長した気になっていた頃。

そんな父の年齢になったんだなっと、その当時、気づいたことを覚えている。そして、当時すでに亡き父であったことに、自分は未来より過去の方が多くなったんだなっと自覚したことも。

いつの間にか人生を折り返してる。

そう思ってから自分以外の誰かのために生きることも悪くないと本気で思えるようになった気がする。

と言いながら、まだまだやりたいことだらけの未来に向かって迷走中でもあるのですが…

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